春を待つ狼 9

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「本当にここに子どもがいるのかな?」

暖かな寝室。天蓋を下ろした寝台の上でファイザルはまだ何の変化もないレーニエの下腹を寝間着の上から撫でた。暖かい大きな掌で撫でられ、気持ち良さそうにレーニエは微笑む。夫の問いは昨日から何度目になるだろう。



その朝は吐き気が酷く、ファイザルの出立の日だと言うのにレーニエは寝台から起きられなかった。昼ごろになってやっと引いたと思ったら、今度は夫から起きてはいけないとの厳命が下り、今に至っている。何しろ付き添う彼も心配のあまり朝食が喉を通らず、彼は昼前の出立を午後に遅らせてしまった。これにはレーニエやサリアの方が驚いてしまったが、彼はどうせアルエの街で一泊しなくてはいけないし、明日早く経てば行程に遅れは生じないと言を曲げなかったのだ。

もっとも内心これから戦に行くと言うのに、こんな事ではと自分を(なじ)ったが、こればかりは譲れない。食事にしても、何も食べていないのに嘔吐(えず)く妻を前にして、どうにも体が受け付けないので、無理に食べる事を諦めた。幸いレーニエの方は一刻ほどして気持ちの悪いのは収まり、昼前には果物の汁を少し飲む事が出来、顔色も戻ったが、あのままだったらファイザルは自分ももう一泊して軍を先に発たせようと思ったほどだった。

今、レーニエは高くしたクッションに凭れて添い寝した夫の愛撫を受けている。愛撫と言っても口づけと、優しく触れ合う以上の事をされないのが少し物足りないが仕方がない。彼は(いか)めしい上着を着ようともせず、軍靴もつけずにレーニエの体に腕を回している。主を待つ上着やマントは長椅子に放り出され、全く顧みられていない。

「こんなに平らなのに・・・」

天蓋の(とばり)の中だけでしか見せない顔で彼はレーニエを覗き込む。

昨日は一日中報告を受けたり出したり、砦からの使者がひっきりなしに訪れたが、使者から外から風邪などを持ち込ませぬよう館に入る人間は厳しく制限し、一定の距離を保って接した。そしていちいち段取りを命じ終える度に二階にとって返し、あれこれとレーニエの世話を焼いたり、乞われるままナルルーリャの話をしたりしていた。一階と二階でどれだけ態度が違うのだとサリアは密かに呆れていたが。

「いるの。あなたの子が」

レーニエは夫の大きな手に自分の華奢なそれを重ねた。

「信じられない」

「でも、いるよ。私には分かるの」

「・・・」

ファイザルは半身を折って重みを掛けぬように妻の腹に耳をつけてみる。

「まだ、何も聞こえないよ」

「ああ・・・あなたの匂いがするだけだ」

悪阻が始まってから香りのあるリルアの花風呂にも入れなくなってしまった為、ファイザルの鼻孔に届くのは甘いレーニエの匂いだけである。欲望が無くなった訳ではない。むしろ離れていた間もずっと妻を乞うていた。だが、彼にとっては何よりも優先するのがレーニエの体調なので、その欲は今、懸念に取って代わっている。彼は目を閉じ、頬に感じる暖かで香しい肌を感じた。今度この感覚を得られるのは何時になるだろうか?

その時軽いノックの音がしてサリアが顔を出す。途端にファイザルの顔が盛大に顰められた。出立の前ぐらいゆっくり二人で過ごしたいのに、会いたくもない邪魔者がやって来たのだ。そして、その後彼らと共に自分は出立しなくてはならない。

「失礼いたします。ファイザル様、お客様が参られました。直ぐお通しされますか?」

天蓋の陰で睦み合う夫婦に遠慮し、サリアは扉の傍から尋ねた。

「すみません、こちらが言うまで下で待たせておいて貰えますか?」

「畏まりました」



「もう・・・お客人を待たせては・・・」

サリアが出て言った後、困ったように言いかけるレーニエにファイザルは真面目な顔で向き直る。こう言う時はお説教が待っていると知るレーニエは何を言われるのかと首を竦めた。

「いいのです、そんな事は。それより、あなただ。いいですね、彼等が入ってきても帳は上げてはいけません」

「それではお客様のお顔が見えない」

「見ないでよろしい。万が一にも風邪などを貰っては大変だ。それから、身籠っている事も決して言わないように」

「何故?」

「オリイさんの話では家の者以外は知らないそうですし、使用人には家族にもまだ黙っておくように厳しく言ってあるそうです。キダムさんだけは知っているようですが、体が落ち着くまでは無闇に言いふらさない方がいい。ご領主は体調を崩していると、そう皆は思っています。そのつもりでいてください。いい時期を見計らってオリイさんが公開してくれるでしょうから」

「ふぅ~~ん」

「それから、好奇心を起こして彼らに色々な事を尋ねてもいけません」

「ええっ?なんで。あちらの様子を聞きたかったのに」

「そんな事は俺から話したでしょう?又帰ったら話してさし上げます。まったく、あなたがこれほど望まなければ接見も許可しなかった所なのですが」

昨日ファイザルが下で仕事をしている間に、サリアがつい漏らした隣国の村長の接見の希求をレーニエは大喜びで受けてしまったのである。このところ屋敷から出る事が全く叶わず、気分の落ち着く時には退屈しきっていたレーニエにとって、願ってもない気分転換だった。以前、知らない人と会う事を極力避けていた時の事を思うと、自分でも全く信じられない。

今回はファイザルの方が渋面を作った。彼は大事な時期を迎えたレーニエを誰にも会わせたくはなかったのである。特に野心が垣間見られるような人物に、レーニエの美貌や純粋さを見られたくはなかった。彼は隣国にいる間も、極力妻の話題を避けるようにしていたのである。

幸いノヴァの人たちは一旦信頼関係を築けば大変良い人たちだが、基本的にはよそ者を直ぐに受け入れにくい土地柄なので、自分達の事を村人がぺらぺらと口外する心配はなかった。レーニエが初めてこの地にやって来た時の揉め事がよい例である。ナルルーリャの客人をもてなすのはいいが必要以外の事は漏らさぬようにと、キダムにも言い含めてある。

レーニエのたっての願いがなかったら、接見等、絶対に許可しない筈だった。返す返すも妻には甘い自分を呪いながら、ファイザルは条件を出したと言う訳だ。

「とにかくレナは無口に、重々しくしておいでなさい」

「ええ~~~~そんなの・・・む」

やだ、と言いかけた口を唇で塞ぎ、ファイザルは命じた。

「大人しく俺の言う事を聞いて」

「・・・はい」

「よろしい。くれぐれも普通の(・・・)領主らしく振舞ってください。わかりましたね」



――普通のって・・・私はやっぱり普通じゃないの?



「む~」

納得しきれずに頷くレーニエであった。











「お目にかかれて光栄に存じます。ノヴァゼムーリャのご領主様」

殆ど扉の真正面の床に膝まづいてセシュリアは、奥の寝台に向かって声を上げた。グレンザが同じように隣に控えている。

セシュリアは男の服に身を包んでいた。旅をする時は何時もそうなのだが、すらりとした肢体を飴色の裏皮の上着に包み、太いベルトで腰を結わえていた。腿にぴったりと張り付くズボンに矢張り黒い皮の膝まである長い靴を履いている。男装はしていても匂い立つような色気が滲み出ていた。

「ナルルーリャ領、東海岸地区エンツァ村の村長、セシュリア・ギネスと申しまする」

名乗りを上げて顔を上げると寝台の前にファイザルが佇立しているのが見えた。彼は既に一部の隙もない軍装に身を固め、剣を床に突き立てるようにして持ち、両手を軽く柄に添えている。見慣れた黒い将軍の略装。こちらに向けた顔は何時も通り表情が読めない。セシュリアの凛々しくも色っぽい装いに心動かされた様子もなかったが、僅かに後ろの寝台に頭を傾げた。古めかしい大きな寝台は帳の奥の人影を仄かに映している。人影は半身を起しているようだった。

「ご丁寧な挨拶痛み入ります。私は今この通りの病身で、すっかりやつれているので帳を下ろしたままで失礼いたしますが。情けない姿で申し訳もありません。どうぞお楽になさってください」

レーニエは極めて普通に見えるようにつくり声で話した。

「いいえ、とんでもありませぬ。ご気分が優れられないのに、私どもの様な身分卑しい者へお優しいお言葉を賜り感激でございまする」

「ノヴァの地の印象はどうですか?」

「はい。同じ辺境ながらこちらは明るく、人々も豊かなようで驚いております」

「・・・豊かとは言えぬが・・・皆大らかで優しい人たちです。キダム殿には何を願われました?」

「はい。我が地方で採れる海産物をこちらで商えないかと。こちらには海がないと聞きましたので」

「ああ、確かに近くにはありませぬ。セヴェレを超えた北になりますから・・・私もまだ見に言った事はないのです。そのせいか、魚や貝も滅多に食べぬようです。時折商人達が乾物を持ってくる事はあるようですが」

「はい。ですから、街道さえ整備されましたら、新鮮な魚や、加工品をノヴァの人たちにも今よりもっと買っていただけるのではないかと。脇街道は余り便利がいいとは言えませんので」

「成程・・・それで、キダム殿は何と?」

「ご領主様が許可されるならよい・・・と。今までナルルーリャとノヴァゼムーリャは余り交流がなかったので、流通経路がしっかり確保できていなかったようなのです。脇街道はかなり荒れておるようです。ねぇ、ファイザル様」

「・・・」

セシュリアは、ねぇの部分に力を込めたが、彼はうっそりと頷くだけで否とも応とも応えない。

「そうなのですか・・・私も今までは隣国の事を余り考える余裕がなくて・・・でも、考えてみてもいい頃かもしれませぬな。元気な時なら私もお魚は好きだから・・・うん、一度釣りと言うものに挑戦してみた・・・」

「ご領主様」

ほんの少し慌てた様な声がレーニエを遮った。

「ん?」

「お疲れのご様子。そろそろこの者達を下がらせます故、どうかお休みを」

「・・・分かった」

せっかく話が面白くなって来た所で中断させられたレーニエは、少し不満そうに、しかし素直に従った。

「済みませぬ。セシュリア殿・・・せっかくお越し下さったのに御もてなしもできず・・・あなた方はヨ・・・将軍殿と一緒にナルルーリャへ戻られるとか。なんでも恐ろしい盗賊が出ていると聞き及びました」

「左様でございます。ですが、ご高名なファイザル将軍様がおいでになってくださったので、一安心でございます」

セシュリアは花が綻ぶように笑った。

「左様か・・・道中どうかお気をつけて、またぜひこの地へお越し願いたいものです」

「ありがとうございます。ではこれにてお暇申し上げまする」

レーニエの言葉に従い、二人は立ち上がり、丁寧に一礼するとサリアが開けてくれた扉から出ていった。サリアも供に部屋を出るが扉を閉じる前に振り返り、ファイザルに向かって大胆に顰め面をして見せる。サリアもセシュリアが気に入らないのだ。



「まったく、あなたは。余計な事を言わないと約束したではありませんか」

扉が閉まるや否や、ファイザルは小首を傾げているレーニエに文句を言う。

「私何か言ったかな?すごく普通にしてたと思うんだけど」

「・・・分からないならいいです」

普通の女領主なら、いきなり釣りをしたいだとか言いださないとは、何故分からないのだろうか。しかしファイザルはそんな事でレーニエを責める気にはならなかった。旅立の刻限が迫っているのだ。身重の愛する妻を置いて彼は又、行かねばならない。

「なかなか素敵な人たちだったねぇ、そう思わない?」

「思わない」

ファイザルはそっけなく答えた。これ以上彼等の話題で貴重な時間を費やしたくはない。彼はそっと妻の額に唇を寄せた。

「済まない・・・レナ、またしばらく留守にする」

「うん。大丈夫。今度ばかりは大人しくしているよ、心配しないで」

「本当に大人しくしてください。何かあれば直ぐに知らせを送る事。何も知らされずに要るのが一番辛い」

「分かった」

「仕事を終えたら出来るだけ早く戻る。だから、レナ、一歩もこの館から・・・寝台からも出ないで待っていてくれ・・・あなたに何かあれば俺は生きていられない」

「もう・・・平気だってば。あなたが南の戦に出かけている間、一年以上も私ここで頑張ったんだから」

「あの時も・・・辛かったな」

お互いに・・・指で髪を梳きながらファイザルは呟く。

「うん。だから怖い事言わないで、存分に働かれて戻ってきて。お土産にお魚を持って来てね」

「はは・・・そうするか」

後半時はこうしていられる、そう思ってファイザルはレーニエを抱き寄せた。









――つまらない女!



グレンザと共に廊下を進みながらセシュリアは頭を聳やかした。長靴の踵が薄暗い廊下にこつこつと勇ましく響く。振り返っても後にして来た扉は固く閉ざされ、長身の男が出てくる気配はない。代わりに若い侍女が不審そうな顔をして自分を見ているのに気付き、慌てて前に目を据えた。

あの暗く長い廊下の奥に領主は病身を横たえているのだ。重々しく、時代がかった調度に囲まれ、豪華な寝台の上で人形のように。



――何の役にも立たない、剣を持つ事も出来ないような女



――あんな女が



天蓋の薄布に隠れて顔は分からなかったが、儚い影は小さく、子どものように細い線が映っていた。最後に妙な事を言いかけた他は、言葉遣いもなんだか不自然で、台詞を棒読みする下手糞な俳優の様で面白みも感じられなかった。高貴な身分だと言うが、女として魅力がどこにあるのだろう。あれではまともにあの男の相手などとてもできまいに。

しかし、平民出身の彼は身分の高い妻を取りあえず大事にしているのだろう。短い謁見の間中、彼はずっと表情を無くし、静かに自分達を見ていた。

ご領主様、彼は妻をそう呼んだ。

「ふ・・・」

「セシュリア?」

隣でグレンザがいぶかしんでいる。彼の痩せた顔は屈託に満ちて幼馴染を見ていた。何か言いたそうだが、彼女はそれに気がつかない。

「いいえ、なんでもないのよ。グレンザ、さぁ、もうすぐ出発だわ。下で将軍様を待ちましょう!」

セシュリアはそう言って笑った。





                  ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇



さて兄さん、男の仕事ですよ。
どうぞご感想などお寄せ下さい。




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