領主館の正面ホールをファイザルは苛々と歩きまわっている。
普段家具などを置かない広いホールだが今は長椅子や肘掛け椅子が出され、そこにセバストとジャヌーが矢張り心配そうに座っていた。
「遅い・・・遅くはないか?もう、夜が明ける。何か・・・何かあったのでは・・・?」
最後の質問は今夜何回目だろう?誰に言うともなく発せられるそれは次第に焦燥の色を濃くしている。最初の陣痛から既に10時間、レーニエがオリイとサリア、それに都から来た女医グレア・キンケイドと共に産室に
拵えた寝室に籠って既に5時間が経つ。
昨日の午後遅く最初の陣痛が訪れた時、レーニエよりファイザルの方が蒼白になった。既に分娩についての知識は書物から得ていたが、それでも体を丸めて苦しそうにしているレーニエの傍で何もしてやれない自分を責めて気分が悪くなった。だんだんと感覚が短くなってくる痛みを耐えている小さな妻の手を握りしめることしかできない役立たずの自分。いくらレーニエが平気だと言ってもその顔から憂いの影が晴れる事はなくて。
「さぁ、そろそろ殿方たちはお部屋を出て貰えますか?」
夜半、オリイとキンケイドに部屋を追い立てられた時はかなり抵抗を感じたが、レーニエが大丈夫だと笑顔で送り出した。それから数刻の間。二階から苦鳴が漏れてくる度に階段を駆け上がりたい衝動を抑え続けた。時折お湯や布を持って昇降するサリアや、手伝いの村の娘達に「大丈夫ですわよ」と励まされてもなんの気休めにもならない。これが自分の事ならどんな苦痛にも耐えられるのに、あの細い体がいかなる苦痛を耐えているのかと思うだけで、無力なる男の自分を呪いたくなった。
「ファイザル様、少しお休みください」
セバストも矢張り心配そうだったが、流石にこちらは彼よりは落ち着いて座っており、静かにパイプを燻らせている。
「休む?それは俺に呼吸をするなと言っているような物です。ああ・・・今夜が終らないような気がする」
「ご婦人の身体と言うのは案外丈夫なものですよ」
「俺には信じられません」
応えたのはジャヌーである。彼はファイザルに劣らないほど若々しい顔の色を無くしている。その時再び階上から細い声が聞こえ、ファイザルはびくりと肩を震わせ、腰を浮かしかけたが非常な努力で堪えた。
「レーニエ様のあんな声を聞くくらいなら、自分が負傷する方が余程ましです。ああ、俺が変わって差し上げたい。女の人はあんなに大変な目をして子どもを産むんだと初めて知りました」
ジャヌーは階段の途中に腰を下ろして黙り込んでしまったファイザルの代わりにそう言った。髪は乱れ、すっかり憔悴している。その目はホールの正面に設けられた天窓をじっと見つめていた。彼には祈るべき神の名など知らなかったが、この瞬間全身全霊を捧げて祈った。
――早く返してくれ、俺の元に早く。この命が欲しいの言うならばくれてやるほどに
そして―――
白々と明け染める朝日がその日初めて天窓から差し込み、彼を照らした時―――
んぎゃぁ
それは紛れもなく生まれおちた命の産声。魂の叫び。
瞬間男達が立ちあがった。
「今――」
「はい!確かに赤ん坊の声です。生まれたんだ!」
ジャヌーが踊り上がる。そこへサリアが顔を出した。彼女は張り出し廊下の手すりから覗き込むように叫ぶ。その声は歓喜に満ちていた。
「ファイザル様、お喜びください!元気な男の子ですわ!」
「レ・・・レナは」
国一番と謳われる戦士は声が震えないようにすることも忘れて問うた。
「はい、レーニエ様も大丈夫ですわ。意識もしっかりしていらっしゃいます。今きれいにしていただいておりますから、もう少ししたらお会いになれますわ」
サリアが硬直するファイザルに微笑みかけた時だった。廊下の向こうから再び可愛い鳴き声が聞こえたのは。
ふぎゃあ
「え?又泣き出したのかな・・・?」
サリアが部屋へ戻ろうと振り向いた時、転がるようにオリイが廊下を駆けてきた。彼女が領主館の廊下を走った事等今まで一度もなかったのに、恥ずかしげもなく踊り上がっている。
「ファイザル様!ファイザル様!女の子です!」
「!?」
「オリイ、一体どっちなんだ?さっきのは間違えたのか?まさか・・・」
流石のセバストもパイプを口から離して、連れ合いに眉を顰めるがオリイはまだ興奮したまま、足を踏みならしている。
「ちがうったら!ちがうの!分からないんですか?双子だったんですよ!双子!ああ、何て素晴らしい!」
「・・・・・・」
「ファイザル様、おめでとうございます。一気に男の子と女の子のお父様になられたのですよ!」
「ほら!しっかりなさって!」
いつの間にか傍に来ていたセバストが肩を叩く。青い目がセバストに焦点を合わせるが、彼は未だ何をしていいのか分からないようだった。彼の時間は暫し止まっている。
ホールに差し込む光が濃くなった。
「ええ?はいはい、分かりましたよ!・・・ファイザル様、長らくお待たせいたしました。
後産も無事に済んだそうです。もうお目にかかれますよ」
向こうから何か言われて相槌を打っていたオリイが晴々と言った言葉を、まだ茫然と受け止めていたファイザルが次第に精気を取り戻す。
「・・・レナ・・・レナ!」
流石の反射神経で彼は一気に階段を昇ると、オリイがびっくりしている横をすり抜け、廊下の向こうに消えた。
「レナ・・・!」
勢いよく開けられた扉から廊下の寒気がどっと入って来た。
「お静かに!そして、早く扉を閉めてください」
医師のキンケイドの静かだが厳しい声が飛んだ。彼女は女王の友人の一人である。ファイザルは大人しく指示に従う。この戦場では指揮権は彼女にあり、自分は無力な一兵卒にも劣るのである。彼は瞬時にその事を理解した。
「ヨシュア・・・?」
たくし上げられた帳の陰から弱々しい声が聞こえた。ファイザルがきっとキンケイドを見ると、大きく頷いてくれたので大股で部屋を横切り、一晩中身を切られるほど心配した妻が横になっている寝台へ駆け寄る。
既に整えられた清潔なシーツの上でレーニエはぐったりと横たわっていた。少しやつれた様に見えるその頬には今までには無い輝きを放つ微笑みが浮かんでいる。
「レナ!」
「ああ、あなた・・・」
細い手首がファイザルに差し出され、彼は性急にそれを握りしめる。暖かい。生きている。
「体は・・・大丈夫なのか?」
室内に立ちこめる血の匂いを払おうとしてだろう、ファイザルには見に染む程に馴染みの匂いだが、窓は少し開けられている。開け放たれた隣の浴室から水音が聞こえてきた。
「うん・・・ちょっと疲れて変な感じだけど、直ぐに治るって・・・」
レーニエは蒼褪めた頬にそれでも頬笑みを浮かべて夫を見上げた。
「それで・・・子は・・・」
「うん、今隣できれいにして貰っているの・・・聞いた?私2人も・・・」
「ああ・・・大手柄だ」
信じられない。どこまでも華奢な体は臨月になってもそのままだった。お腹だけが目立ってしまい、「ずいぶんへんてこだね」とレーニエは笑っていたが、ファイザルは妻の体が壊れてしまうのではと気が気ではなかった。最後の一カ月は屋敷から出る事も禁じ、春の最中だと言うのに殆ど風にもあてないように守ってきたつもりだったのに、最後の最後になって二人の女傑によって厳然と戦場から追い払われた。この僅か一夜の別れは、今までのどんな長い別れより苦しかったとファイザルは後になっても思う。
「うん、戦で勝った時ってこんな感じなのかな?とっても疲れたんだけど、いい気分なの・・・ああ、来た来た・・・オリイ早く、早く見せて」
レーニエは疲れ切った体を起こそうと躍起になっている。ファイザルに背中を支えられ、幾つもの枕をあてがって身を起こすと待ち切れぬように両手を差し出した。浴室の方からオリイとサリアに抱かれてやって来たのは初めての彼らの子ども。真っ白なおくるみに包まれて、そっと二人の間に寝かされる。眠っているのだか、泣いているのだか分からない顔で向き合っている。二人とも色が白かった。
「ああ・・・・・・なんて可愛い」
レーニエはうっとりと、つい今しがた自分の胎内から出てきたばかりの命を眺めた。
「ああ、本当に」
ファイザルは珍しくあやふやな調子で言った。未だ驚きの色が濃くその秀でた額に浮かんでいる。
「お二人によく似ていらっしゃいますわ」
サリアが歌うように言った。
「ええ?そうかな?どっちが男の子?」
「レーニエ様の方に寝ておられる方が」
「じゃあ、こっちが女の子だね」
レーニエはふわりと腕を伸ばし、遠慮なく指の腹で赤子のぷっちりした頬を撫でた。ファイザルは恐る恐る指を伸ばしたが、壊すの恐れるかのように引っ込めた。生まれたての清らかな身体に触れるのがおこがましいとでも言うように。
「ああ、可愛い・・・可愛いねぇ・・・ヨシュア、ありがとう・・・私にこんな贈り物をしてくれて」
「俺は・・・」
ファイザルは暫く妻と眠る赤子を見つめていたが、床に膝を付いて身体を寄せるとゆっくりと妻の肩に額を埋めた。二人の間には生まれたての宝石が力強く小さな心肺を動かし、ふしゅふしゅと呼吸をしている。まるで奇跡のように。
「ヨシュア?」
「・・・」
まるで大きな赤ん坊のように彼はレーニエに縋っていた。
「済まない・・・まだ信じられないんだ。俺なんかが父親に・・・」
「そう。あなたはこの子たちの父上。ご立派でお優しい・・・」
まるで子どもにするように鉄色の髪を指に絡めて梳く。
「自慢の父上」
髪に絡めていた指を首に滑らして自分へと引き寄せる。この瞬間レーニエは彼の母だった。
「大丈夫、何も心配は要らない・・・あなたは強いもの」
「ああ・・・だが、俺は沢山の命を奪って来た。つい最近も・・・な。なのに、誕生を見たのはこれが初めてだ。情けないが恐ろしい。命と言うものはこのように尊いものだったか」
肩を掴む手に力が籠る。
「俺は・・・永劫に許される事のない罪を重ねて」
「なら、これからは四人で背負えばいい」
「レナ?」
「罪が消えないと言うなら、背負えばいい。あなたにはこれからだって大変なお仕事があるかもしれない。けど、私もこの子たちも一緒に歩いてゆくから」
「・・・・・・」
「あなたを決して一人にしない」
「レナ・・・あなたは」
「愛してるの。この子たちと一緒にあなたを愛してるの」
もの心ついた時には戦場で暮らし父母の顔すら覚えていない男に、無条件の愛を注ぎ、家族をくれると言う娘。胸の中に膨れ上がる感情にどんな名が付いているのか彼は知らない。
ただ、苦しい。
恐れでも痛みでもない、こんな苦しさが存在するとは。男の眉間が険しく歪んだ。
「・・・ヨシュア?」
「う・・・・・・く・・・・・・っ」
レーニエの首に顔を埋めたファイザルの広い肩が揺れる。握りしめた指の関節が白く浮き出ていた。レーニエは黙ったままその背を撫で続ける。
んみゅ
どちらの子のものだか、小さな喉が鳴った。二人ははっと顔を上げる。赤ん坊たちは何もなかったようにすやすやと眠っている。サリアの姿はいつのまにか消えていた。
「・・・」
ファイザルは妻を見つめた。その赤い瞳はいつも優しく自分を映してくれる。なによりも愛しい神聖な紅。その繊細な瞳が曇る事の無きよう彼は細心の注意を払って来たのだ。しかし、今はその中に以前にはなかった不思議な強さが宿っている。彼は我を忘れてその瞳に魅入った。
「ふ・・・」
不意にレーニエは笑い、唇を彼の眦に寄せた。そこに残っていた物をちゅと吸い上げると、反対の目にも同じ事をする。そして瞼に、鼻の頭に・・・何度も何度もレーニエは口づけを落とした。いつも彼がそうするように。
「大好き」
「・・・ああ」
「ずっとずぅ~~っと一緒にいてくれる?」
「・・・嫌だと言っても離さない」
ファイザルは大仕事を終えてほんの少しやつれた頬に指で触れ、反対側の頬に己のそれを摺りつけた。限りない愛しさを込めて。
「一生だよ?」
「無論。・・・愛している」
「うん」
「あなたと子ども達を守る。俺の命懸けて」
それは彼の生涯で最大にして、至高の誓いだった。
「レナ・・・」
「うん?」
「ありがとう」
どちらからともなく唇が寄せられ、生まれたての命の上で二人は口づけを交わした。
その朝一番の小鳥が窓の外で鳴きだした。帳の引かれた窓の外にはまだ若い緑の葉。緩い風が荒野を渡ってゆく。
ノヴァゼムーリャは間もなく萌ゆる季節を迎えるのだ。
後にノヴァの双珠と呼ばれるレストラウドとエルフィールの物語はここから始まったのだった。
◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇
ここまで読んでくださいましてありがとうございました。もしよろしければご感想などをお願いいたします。今後の希望的展開等でも結構です。オエビに兄さん描いてます。こちらも良かったら見てね。