春を待つ狼

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            眠れいとし子 この腕に


            眠りの国はすぐそばに


            門を開いて待っている


            眠れいとし子 この腕に


            花も 小鳥も お菓子も 絹も


            みんなお前の手の中に










ノヴァの荒野に北風が吹き抜けてゆく。

先月までは秋の花が咲き乱れていた荒野は急速に色褪せ、セヴェレの山から下りてくる風の季節となった。

山の匂いを含んだ風が丈の高い草を揺らす度にさわさわと乾いた音をたて、短いノヴァの秋は駆け足で冬に移ろいゆく。まだ雪こそ降ってはいないが、ここ数日の冷え込み方では空からの恋文が届くのも間もなくだろう。



レーニエはその音を聞くのが好きだった。



こっそり開けた窓から風が忍び込む。

領主館から見下ろす荒野はどこまでも広い。光線の加減で金色にも見える名もなき草木で覆われた広大な土地は、ずっと昔からこの土地に暮らす人々に荒野(ムーア)と呼ばれていた。

春から秋にかけて可憐な花をつける草木の根は意外に曲者で、深く地中に蔓延り、そこを耕そうとする農夫達を嘆かせる。そして苦労して耕したところで土地は痩せており、効率よく換金できるような作物は殆ど育たない。



荒野とはそんなところだった。



なのに



――うつくしい



レーニエは窓際に寄せて貰った大きな椅子にゆったりと凭れて、飽かず眼下を眺めている。農民の苦労の種である貧弱な土地も、この若い領主にとっては貧しさも含めて愛しい自分の領土なのだ。

いや、正確には、土地はそこを耕す者たちのものだと考えているレーニエは、自分の領地などはこの世の何処にもないと思っている。しかし、生まれた所には自分の物と思えるものは何もない彼女にとって、このもの寂しい空間が何物にも代え難い自分の居場所に思えてならない。

街道を左に行けば、直ぐにノヴァゼムーリャの領主村。右に折れれば、馬で一日の先にあるアルエの街まではひたすら荒野のただ中である。



ひょう



空気が又動いて、結う事を好まぬ佳人の銀髪を梳く。澄んだ空のすぐ下、高みを往く鳥が鋭く鳴いた。



「こんな所におられた」



背後に錆びた声を聞く。

振り返れば、黒い旅装束に身を包んだ長身の美丈夫。

名をヨシュア・セス・ファイザルと言う。

エルファラン国北方領土を守る将軍にしてノヴァゼムーリャ領主、レーニエ・アミ・ディー・エルフィオーレの夫であった。



「窓を開けられたのか」

その声は穏やかだったが、大股で部屋を横切った男は問答無用で細く開けられていた窓を閉めた。

「サリアさんに叱られてしまう。それでなくてもこの部屋は広すぎて寒いだろうに・・・付いてやれなくて済まない。ご気分は?」

レーニエが今いる部屋は彼女が日常に使っている部屋ではなく、露台のない一番端の部屋である。余り使われないこの部屋は、遮るものがない分、室内からの眺望が一番いい。外に面した部分は全て窓で、それは床から天井まで届き、帳は大きく引かれている為、明るくはあるが一番温まりにくい部屋だった。

ファイザルはレーニエが半身を横たえている椅子の端に腰掛け、大きなマントで妻を包み込こもうとした。しかし、レーニエは視界が遮られるのを嫌い、首だけをひょいと伸ばした。

「もうすっかりいいの。火を焚いているから結構暖かいし・・・それに、少しくらい寒い方が気持ちがいい。この部屋からの眺めが好きなの。まるで自分も風になってどこまでも荒野を渡って行くみたいで・・・」

「何処にも行かせない。貴女は俺とずっとここにいるんだ」

夢見るようなレーニエの言葉を余り面白くなさそうに受け止め、ファイザルは肩を抱く力を少し強める。レーニエはくすりと笑った。

「あなたはこれから行っておしまいになるのに?」

「貴女が嫌なら行かなくてもいい」

ファイザルは心配でならないように、若い妻の白い顔を覗きこむが、レーニエは別に咎めている訳ではなく、ただ彼をからかっただけなのだ。『掃討のセス』と呼ばれる恐るべき戦士の彼をからかえるのは、エルファラン国広し言えども、レーニエと、後一人くらいであろう。





その朝、レーニエは珍しく起きぬけに貧血めいた目眩を起こし、軽い吐き気をも覚えた。幸い朝食が食べられなかったくらいで熱もなかったが、大層心配したファイザルと家令夫婦、そしてその娘サリアに寝台から出てはならぬと厳命を受け、大した事はないと主張する主の願いもむなしく、午前中じっと横になっていたのである。

村でただ一人の医師であるリンゼイ・フォレストは折悪しく、アルエの街まで出かけていたが午後には戻る予定なので、直ぐに領主館を訪れるように使者を出した。

しかし、その後も熱も咳も出ず、昼過ぎには粥を食べられるほど回復したので、こういう事には経験豊かなオリイから漸く寝台から出ることを許された。今日は特別な日だったからだ。しかし、外に出たいという願いは考える余地もなく却下され、露台に出ることも禁じられたが、なんとかサリアに頼み込んで少しの時間ならと言う条件で、外に出なくとも眺望のいいこの部屋から荒野を眺めていたと言う訳だった。

「サリアさんは?あなたに付いていた筈では」

「さっきまでいたんだけど、別にしんどくもなくなったので、ほんの半時ばかり一人にして貰ったの。午前中はずっと構われていたし。それでなくとも忙しい家の者に心配は掛けたくないけれど、少しは息抜きしたいよ」

「まったく・・・じっとしているのがよくせき苦手と見える。あなたは・・・」

「ふ・・・皆心配し過ぎなのだ」

確かに見かけどおり頑健な方ではないが、さりとて蒲柳(ほりゅう)の質とも言えぬレーニエである。殊に3年前にこの地に来て生きがいを見つけてからは、以前よく出していた高熱も殆ど出す事はない。本人はその事に大層自信を持っているのだが、如何せん、周囲はちっとも信じてくれないのが不本意そうである。

「あなたに関してはいくら心配しても、し過ぎると言う事はない」

ファイザルはそう言うと、緩みかけていたレーニエのショールを胸元で掻き合わせ、ついでにとん、と唇を落とした。よかった、頬はそれほど冷たくなってはいないようだ。彼はレーニエを案じる余り、自分の方が気分が悪くなってしまった様子で、本当は付き添ってやりたい気持ちを無理やり押さえつけて食事もとらずに仕事をしていたが、やっと今解放されて妻を求めた。だが、それは暫しの別れに際して挨拶を告げる為だったのだ。

「ご準備は整った?」

「すっかり」

妻が心配で胸が悪くなりながらも、仕事を完璧にこなすのは彼の損な性分である。

「まだ下に降りなくていいの」

「降りたくない」

「駄々っ子だなぁ」

大の男が普段皆に心配を掛け通しのレーニエに呆れられると言うのも酷い話だが、ファイザルはまったく気にせず、むしろ愛しくてならないように妻の頬に鼻を擦り合わせた。

「なんとでも。こんなあなたを置いて行きたくはないのだが・・・レナ、済まない」

「大丈夫。だって大切なお仕事なのだから。前から東のご領主から要請されていた国境視察をこんな事くらいで延期させてしまっては、一応隣国の領主として失礼に当たるもの。国一番の戦士を自分の領地に一人占めしているって母上にも叱られてしまう」

「だが、俺はおちおち仕事に集中できないだろう。うん、やっぱり出立を延ばし・・・」

思いついたように腰を浮かす彼の姿は部下には見せられたものではない。歴戦の勇士の彼は、平時においても厳しい上官なのだ。その厚い軍服の袖口が細い指先に摘まれ、振り返ると世にも珍しい紅玉の瞳。

「それはいけない」

「レナ・・・俺は白髪になってしまう」

「もう、ヨシュアったら!・・・私は本当に大丈夫なの。自分の体の事くらい自分で分かる」

「・・・」

憤然と言い放った妻に武人の凛々しい眉が困ったように寄せられた。珍しい事である。

「それに支度を整えてから旅立ちを延期するのは縁起が悪いって、ナディア殿が貸して下さった占いの本に載っていたし」

「占いの本?又そんな本を借りられたのか」

「うん。占いの事は今まであんまり知らなかったけど『よく当たる!恋と運気のおまじない』という本に」

「レナの興味の幅は本当に広い・・・」

彼なら絶対に手に取らない本の内容に、脱力したように呟き、ファイザルは肩を落とした。ナディアは彼の朋輩でアルエの街の守備隊長、オーフェンガルドの妻である。年下のレーニエを崇拝し、事あるごとに本を貸したがる、彼女の数少ない友人の一人だった。

「うん?」

「だが、まだ少し顔色が優れない。本当に二三日は大人しくしてくれ・・・俺の心の安寧の為にも。お願いだから」

「大丈夫」

この娘の大丈夫くらいアテにならないものは、この世に余り無いと言う事はファイザルは長年の経験で身に沁みている。よって、もう一度家礼夫婦によく頼んでおこうと彼は思った。忠実な彼らならば、主の為と思う時、本気で厳しく叱る事も今までにあったからだ。

「念のため、アーベルを残してゆきます。あなたに何かあったら奴に罰を与える」

初老の家礼夫婦だけでは安心できぬか、ファイザルは自分の若い従卆を残すことにしていた。彼ならレーニエも可愛がっているし困らせる様な事はしないだろう。

「そんな、酷いよ。アーベルに気の毒だ」

「あなたの為になら俺はいくらだって非情になれる。奴を気の毒に思うのならセバストさんの許しがあるまで大人しくしている事。元気になっても俺が戻るまでは馬に乗ってふらふらしない事。遅くまで村の子ども達と遊ばない事。厨房に入ってオリイさんに無理を言わない事。セバストさんの道具を無闇にいじらない事。それから・・・」

「ちょっと、ヨシュア!失礼だ、子どもではあるまいし・・・」

「一日一回は俺の事を考える事」

「・・・っ」

そう言うと、突然半身を傾けたファイザルはレーニエの肩を抱き寄せ、強く唇を押しつける。途端に機嫌を直してうっとりと嬉しげに微笑んだ隙間を縫って割り込ませると、甘く柔かい内側を思う存分貪った。

出立の刻限が迫っている。止めなくてはいけないと分かっているのに不埒な彼の唇は唇から顎、そして首筋に流れ幾度も往復する。香しい甘い肌、この感触を暫くの間味わえないのだ。

「約束だ・・・レナ」

ショールに顔を埋めた男の舌先が肩の稜線をなぞっている。昨夜つけた所有の印はまだ淡い薔薇色を留め、密やかな満足を男に齎す。しかし、この痕の残っている内にはとても戻れそうにない。ファイザルは同じ個所に吸いついて、更に色を濃くした。

「んぅ・・・」

「レナ」

「やっ・・・くそく・・・す・・・!」

「・・・いい子だ」

頬を染め、軽く息を弾ませた妻をもう一度強く抱きしめると、彼は漸く体を離した。

「二週間で戻る」

「・・・はい」

「くれぐれも大事にしていて欲しい」

「・・・分かった。・・・もう行く?門まで送れなくてごめんね」

「・・・構わない。門には大勢集まっているし、それにもう寝室にお連れするつもりだった。そろそろ医師の来られる頃合いだろう」

「あん、ここであなたの行かれる姿を見ていたいのに」

可愛らしく鼻を鳴らした抗議を無視し、ファイザルはレーニエを抱き上げて彼女の私室に連れてゆく。片手で抱きあげられる儚い重さは出会った当時と少しも変わらない。何もかも自分と違うその姿は同じ人間とも思えず、少しの事で失ってしまいそうで、その事が人知れぬ彼の怖れなのである。

「早く元気になって俺が返ってくる姿を見て欲しい」


彼は後ろ手に扉を閉めると幾つかの部屋を横切り、天蓋の掛かった古風な寝台にそっと妻を横たえた。乱れた髪を丁寧に整え、名残惜しげに額に口づけると背筋をぐいと伸ばす。

殆ど装飾のない将軍の略装。黒で統一されたその軍装は、精悍な風貌のファイザルに事の他よく似合う。愛剣は今は帯びていないが、おそらく同行する士官、ジャヌーが預かっているのだろう。レーニエは自分の夫をうっとりと眺めた。

「素敵」

「貴女ほどではないが」

「あなたも気をつけてね。お戻りになったら東の地のお話を聞かせて」

「ああ・・・では、ご領主様」

ファイザルは軍隊式の礼をした。

「参ります」

「・・・行ってらっしゃい」



ファイザルが踵を返すとマントがふわりと空気を孕み、長身を引き立てた。軍人らしい姿勢の良い背がレーニエの目に映る。

待って、と思わず呼びかけそうになってレーニエは自分を押し止めたが、ファイザルは心の内を読んだように扉を開けてから振り返った。視線が熱っぽく絡み―――やがて微笑み合う。

「早く帰ってきて」

やっと言いたかった言葉がこぼれる。もっと早くに言えばよかったのに。

「矢の様に」





―――そして、彼は静かに扉を閉めた。





                  ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇

番外編と言うより、その後の物語への布石に位置するお話です。その後があるかどうかはともかくとして。




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