恋物語をあなたに



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「ただいま戻りました・・・おや」

砦から一週間ぶりに戻ったファイザルが居間の扉を開けた時、妻の姿は室内に無かった。

サリアからは、二日前にアルエの街へ、友人ナディアを訪ねたレーニエが、今日の昼過ぎに帰ってからずっと書見をしていると聞いていたのだが。

しかし、ふと目を窓外にやると薄暮に染まった露台にゆらゆらと白い姿が見える。

「こちらにおいででしたか」

ファイザルが窓のところで声をかけると、薄く染まった空を背にしたレーニエがふわりと振り返った。夫の姿を見とめて柔らかな笑みが頬に浮かぶ。

「ヨシュア・・・お帰りなさい」

あるかなきかの風が髪を揺らした。

レーニエが露台に(もた)れたまま動かないのでファイザルは静かに歩みより、妻を抱こうと腕を伸ばす。彼が戻った時にはいつも繰り返される、大切な儀式。

腕に閉じ込めて初めて感じられるほど儚い存在。早く確かめたくて―――



だが―――



彼の気を知ってか知らずか、娘は風に誘われるように緩やかに体を(ひね)った。

髪が流れるような銀の筋を描いて無骨な手の甲を(かす)め、指先が辛うじて白い頬に触れるのみ。柔らかな頬は黄昏の空気の中にいた所為か、ほんのりと冷えている。

「・・・?」

いぶかしむようにファイザルは眉を上げた。これは偶然か?

レーニエが彼の抱擁をすり抜けるのはこれが初めてだった。

「・・・レナ?」

「・・・」

彼を見つめる大きな瞳が揺れているように見えるのは、黄昏の淡い光線がなせる業か?

「どうされた」

「・・・なんでもない」

「ナディア殿に会ってきたのでは」

「うん。いろいろお話して楽しかった。ディーン殿も大層元気で」

ナディアと言うのはファイザルの朋友オーフェンガルドの細君で、以前彼女が身重で会った頃、この屋敷にレーニエが住まわせていた女性だ。しかし、夫がノヴァの南、アルエの街の守備隊長に任じられたのに伴い、現在はこの地を離れている。もっとも、アルエは馬でゆっくり行っても半日もかからぬ距離にあるものだから、ナディアは妹のように大切にしているレーニエを数カ月おきに訪ねてくる。レーニエもナディアの長男であるディーンを大層可愛がっている為、その訪問を(いた)く歓迎していた。今回はこの秋で1歳になるディーンに少し早い祝いの品を届けるため、レーニエの方からアルエの街まで足を伸ばしたと言う訳だった。

「ならなぜ、そのような悲しそうな顔を」

「悲しそう・・・?」

「そうだ」

「私に悲しむ理由など何もない・・・そうだろう?」

「そう思いたいが・・・この瞳が曇るっているのを見るのは・・・不安だ。何があなたをそうさせるのか」

彼が一歩踏み出せば、すぐその体を引き寄せる事が出来る。しかし、彼はそうしないで妻の言葉を待った。だがレーニエが何も言わないうちに屋内からノックの音が響き、サリアが顔を出す。

「晩餐の支度が整いましたが・・・後になさいますか?」

「・・・」

ファイザルが気がかりそうにレーニエを見やる。しかし、彼女は明るい表情をつくって見せた。

「ああ、サリア。今行く」

「畏まりました」

戸口で礼をしてサリアが下がる。

「レナ・・・しかし」

「何もないの・・・ヨシュア、あなたは心配し過ぎる」

「いくら心配してもしすぎる事は無い、あなたについては。だが、風が冷たくなったようだ。少し体が冷えている、下に降りるなら何か羽織りなさい」

「うん・・・あなたも着替えて。軍服はとてもご立派だけど、(くつろ)いでいるあなたを見たいから」

「お心のままに」

レーニエの言葉にファイザルはやっと微笑みを返した。手を伸ばして肩を引きよせると、今度は大人しく彼の腕に収まる。二人は寄り添って屋内に入っていった。








「・・・で、そろそろ教えて貰いたいのだが。あなたが心を曇らせている訳を」

主人の夜の支度を整えて、サリアが下がるとファイザルは早速尋ねた。湯浴みを終えたレーニエは露台に面した窓辺に佇み、まだ少し湿った髪を夜風に遊ばせている。風呂上がりの今はよいが、もう少ししたら窓を閉めなけれないけない。夏の終わりの夜風は早くも秋の気配を孕んでいる。

「もう・・・何もないのに」

「生憎あなたに関する事なら、俺は間違えない。食事中もろくに食べずに上の空だった」

「そう・・・?」

尚も空を眺めようとする顎を捉え、自分の方を向かせながらファイザルはその瞳を覗きこんだ。だが、またしても視線は彼をすり抜ける。

「何があった?」

「別に何も・・・んっ」

レーニエが何を言う暇もなく唇が重ねられる。いつもは軽く(つい)ばむように始まるそれが、今夜はいきなり激しく吸い上げられ、こじ開けられる。

「あっ・・・や」

細い体が精一杯逞しい腕の中で身を(よじ)った。さっきは偶然かと思ったが、もう間違いない。レーニエは彼を拒んでいる。



――まさか、男――?



不意にありえない筈の考えが浮かぶが、彼は慌てて打ち消した。

そんな事はありえ無い。この娘は自分を愛している。アルエの街にも信用のできる護衛を常に同道させていた。男の影がちらついたのなら直ぐに自分のもとに報告が届くはずだ。

「レナ」

「・・・」

大きな手に後頭を掴まれ、大の男をも凍りつかせる視線に射抜かれてレーニエは身を強張らせた。いつもは素直に体を預けてくる娘が何故こうも抱擁を、口づけを拒むのか。ファイザルの胸の中に打ち消したどす黒い疑念が再び急速に湧き出す。

「アルエの街で―――誰と会った」

「誰にも会わない」

口びるが触れ合う距離の厳しい詰問。いつもの(いた)わる様なそれとは真逆の低い感情を抑えた声。顎を捉えられているので顔をそむける事も出来ず、レーニエは(おのの)きながらも苦しそうに応じる。伏せられたまつ毛にうっすらと涙が滲んでいた。

「俺に隠し事をするつもりなのか」

意外にも強情なレーニエに内心驚きながらも、情け容赦なくファイザルは問い詰めた。

「そんな事!・・・あ!」

乱暴に妻の軽い体を掬い上げると、もう一方の腕で窓を閉め、ファイザルは大股で寝台に向かった。

白い敷布の海にそっとレーニエを横たえるも、直ぐに唇を塞ぎ、夜着のひもをつぅと引っ張る。はらりと落ちたレースから薄い肩が現れ、それを追うように唇が首筋へと流れた。

「あっ・・・待っ・・・」

「なら、白状する事だ」

荒々しい唇での愛撫にレーニエは慌てて厚い胸を押し返そうとするが、勿論小揺るぎもしない。見かけよりもずっと器用で怪しからぬ指がどんどん夜着を剥ぎ、肌を露わにしてゆく。

「言わないならこのまま縛ってでも抱く」

甘い肌に舌を這わせ、熱い吐息で撫でながらにファイザルは言い放つ。悲鳴のような細い声が上がるのも明白に無視した。

「だめっ、ごめんなさい、ごめんなさい」

答えは無い。

「あ・・・あんっ!ヨシュア・・・待って、言うからっ・・・きゃあっ」

胸に強い刺激を受けてレーニエが背中を反らせたのを期に、ファイザルはやっと顔を上げた。

「言いなさい」

「う・・・」

涙を振り払いながらこくこくと顎が下がる。怯えてはいても童女のような仕草が彼の笑いを誘った。無論、最初から暴力に訴えるつもりは毛頭無かったが、レーニエが今までになく頑固なところを見せたので、つい、むきになってしまったのだ、。ファイザルは妻の体を探る手を止めて、その身を抱え起こす。大きな枕を背に横になると、自分の体に乗せるようにその体を抱きこんだ。

「さぁおっしゃい。包み隠さず。いいですね」

「はい・・・」

その声は既にレーニエが聞き慣れた、いつもの落ち着いたもので。

「でも、ほんとに他愛のない事なんだ・・・きっとあなたは笑うよ」

「笑えればいいですがね。・・・で?」

「・・・あの・・・今朝アルエを発ったのだけど・・・ナディア殿とディーン殿が見送ってくれて・・・」

「ええ・・・そう聞いています」

親しくしているナディアと離れてしまったから寂しくて浮かなかったと言うのだろうか。しかし、それならば今に始まった事ではない。理由はもっと他にある。ファイザルは先を促す。

「帰り際にナディア殿が本を数冊くださったんだ。あなたがお留守の間、私が読むといいとおっしゃられて」

「ふむ」

読書はレーニエの趣味である。この屋敷にある本はあらかた読んでしまったので、レーニエは時々都に本を注文している。本好きのレーニエを思って、ナディアは新しい本を持ってきてくれたのだろう。

「なんだか軽い読み物だったようなので、館に帰ってから早速読み始めたのだけど・・・」

「・・・」

「本当に笑わないでね」

口籠りながら恥ずかしそうにレーニエは(うつむ)いた。どうやらここからが本筋らしい。

「笑わない」

「たまたま手にした一冊がとっても悲しい恋の物語だったの」

「恋・・・の話ですか」

一気にファイザルの肩の力が抜けた。およそ自分なら絶対に読まない種類の本だ。彼にとって恋愛はするものであって、読むものではないからだ。

「う・・・ん。もっとも、私は恋物語など今まで読んだ事が無いから、初めはよく分からずに読み始めてしまったの。悲しい話は嫌いなはずなのに、余りに引き込まれて、気がついたら午後一杯かかって読み切ってしまった」

「悲しい結末だったのですか」

「うん、大変に。でも初めから言うから聞いてね」

だんだん興が乗ってきたのか、熱心な様子を見せてレーニエは背中の夫を見上げた。

ファイザルの方は逆に、レーニエの屈託が本の内容にあると分かった時点で、疑惑は払拭されてしまったからもう聞かなくてもいいくらいなのだが。まぁここは大人しく拝聴しておいた方がよさそうだ、と、ファイザルは腰を据えた。

「・・・どうぞ」

「ある時貴族の男女が出会って、一目見て互いに恋に落ちた」

「一目惚れか・・・」



――ありそうでない気がするが・・・



「そう言うのかな?でも、二人の家は昔から大層仲が悪かったのだ。だから晴れて恋人だと認められる訳もなく、二人は深く苦悩する」

「・・・苦悩するだけ?」

「うん。だけど青年は思い余って娘の立つ露台の下に立って想いの丈を告げにゆく」

「・・・俺なら娘の立つ露台に這い上がって想いを遂げますが」

「二人は次第に見つめ合っているだけでは飽き足らなくなり、密かに協力者を得て秘密裏に結婚してしまった」

「ふむ、そうでなくては」

「けれど心は深く結び付いてはいても、家同士の争いが止まるまではと、二人は真の意味で触れ合う事は決して無かった」

「一体何をやってたんだ」ファイザルは呆れた。

「しかし、ある日決定的な出来事が起きて、二人は争いに巻き込まれ、娘は他の貴族に嫁すことを父に命ぜられてしまう」

「男はどうしました」

「娘は友人の協力を得て一計を案じる。服毒したと見せかけて仮死状態になり、青年と逃げようとしたのだが、そこに誤解が生じて娘が死んだと思い込んだ青年は自分も自殺してしまい、目覚めた娘も後を追って死んでしまうの。悲劇だろう」

「・・・」

「・・・私、読み終えたときは泣いてしまった。すばらしい・・・至高の愛だと思わないか?体に触れずとも、こんな形で昇華する愛にもう私はうっとりしてしまって・・・」

「え~~~~っと・・・」

自分の腕に抱かれて純愛の物語に瞳を潤ませている妻に、夫はどう言葉を返していいものか。



――しかし!



レーニエが物悲しそうに中空を見つめていたのは、悲劇に終わった恋物語に酔いしれていたからだと言うのか。余りの物思いに、思わず男の存在さえ疑ってしまったと言うのに。自分の腕も唇も拒んだ理由が、精神的な結びつきだけで終わった恋に感化されていただけとは・・・それにしても・・・



――なんてまぬけな男なんだ・・・その主人公は



乙女のデリケートな心情をさっぱり理解できない現実派の軍人は、恋人に分からぬようにそっと溜息をついた。

自分なら欲しい娘を前に、露台の下でつらつら愛を語るなんてそもそもしないだろうし、形式だけの結婚も考えられない。おそらく、どうやったら娘を手に入れられるかあらゆる手を考え尽くし、それでも叶わぬ時は攫ってしまうだろう。中途半端な心中計画なんてもっての外だった。



――世の娘たちはこんな馬鹿男に愛される夢を見ているのか?だとしたら噴飯ものだ・・・だが・・・あれ・・・?



この娘に対する恋心に気づいた時の自分はどうであったか。ファイザルはその事に思い当たり、はた、と考え込んだ。

自身の背景に怯え、初めての感情に戸惑いながらも素直にファイザルを見つめる美しい瞳を、受け入れようとして受け入れられず、眠れぬ夜を過ごしたのは。

抑えても抑えても湧き上がる想いに覚悟を決めた後は修羅の道を突き進み、それでも尚、苦悩からは逃れられなかった。彼の南の街では愛しい姿を一目見んとして密かに露台の下ならぬ、窓下に立った事もあったのだ。

「・・・」

その事を思い出すと流石に妙な汗が浮いた。



「ヨシュア・・・どうしたの?」

複雑な顔で黙り込んだ夫にレーニエは不思議そうに尋ねた。

「いや・・・どうも、男と言うものは仕方のない生き物だと・・・」

無邪気な瞳で見つめられてファイザルは思わず口元を覆う。まったく、物語の男を笑える身ではなかった。将軍だ、司令官だ等と偉そうにしても、ほんの数か月前まで十も年の違う娘への恋に身を焼く一人の男だったのだ。

「・・・?」

「い、いや。でもまぁ、よかった。あなたがあなたのままで」

よもやと危惧していた事が杞憂となり、改めてファイザルは腕を閉じて妻を抱きしめた。そのまま耳朶に唇を近付け、そして・・・



「だけど、今日はいろいろ感銘した事が多いから・・・このまま寝ても構わない?」

いかにも簡単にレーニエは頭を抱き寄せた夫に向かって言った。

「・・・は?」

髪を梳く手がピタリと止まる。

「さっき言った本ね、そらそこにあるの。他にも・・・ナディア殿はどれも素敵な物語だとおっしゃっておられた。楽しみだ」

そう言うと掛布を引っ張り上げ、そのまま腕の中で丸くなってしまった。

「あの・・・レナ?俺は明日また砦に戻らなければならないんだが・・・」

情けない声でその心中に気付いてくれると思ったのは、どうやら見込み違いだったようである。レーニエは今度は素直に頷いた。

「そうなの?うん・・・分かった。寂しいけれど、あなたを心配させないように大人しくする。ゆっくり本でも読んで・・・」

「本」

出来ればもう読まないで欲しいのだが。

「ん・・・ね?ヨシュア、私が寝るまで抱いていてくれる?」

「・・・抱くだけ?」

「ダメ?」

心配そうに見つめられては選択の余地は無い。彼は妻のすべてが可愛くてならないのだ。

「勿論、望みのままに」彼は力なく応じ、こめかみにキスを落とす。

「時にはこうして眠るのもいいね」

「・・・時にはね」

「おやすみ」

未練がましくのばされた腕に優しく指を添え、レーニエはふんわりと笑うとゆっくり眠りの世界に沈んでいった。

「~~~~~~」

ファイザルは大きなため息をつくと、寝台の脇の小卓に積まれた数冊の本を手に取った。

「夢の花嫁」「花園の二人」等、およそファイザルが絶対に選ばぬ題名ばかりである。7、8冊あるそれらはすべて間違いなく、若い娘の喜びそうな清らかな恋の物語なのだろう。



――こんなくだらない本のおかげで・・・・・・



――なんて、殺生な事をしてくれたんだ・・・ナディア殿



忌々しそうに本を投げ出し、清らかさとは無縁の男はあどけない妻の寝顔を見下ろすも、為す術は既に無い。



――だが、今夜だけだ。あなたが恋物語の世界を浸られるのは



明日はどうにかして仕事にケリをつけて館に戻ってやる。言葉だけで紡がれる清らかな恋よりも、実際に愛される熱を、歓びを、もう一度その肌に教えてやる。ファイザルはそっと柔らかな頬を指先で撫でたが、レーニエは(くすぐ)ったそうに喉の奥で子猫の様な音を洩らし、ますます深く眠りに落ちていくだけだった。



――せいぜい一時の甘い夢に浸られるといい



負け惜しみのように心の中で呟いた男は、頬に唇を寄せるだけで今夜のところはその(ほこ)を収めたのであった。











◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇










70万ヒットのニアピンリク作品です。
ニアピンを踏んでくださったryouさんのリクエストは「レーニエちゃんに拒まれておろおろするファイ兄さん」でした。
ryouさん、リクエストありがとうございました。あまり変わり映えしない内容で、しかも前回に引き続き、書物ネタですみません。
レナちん、どうやら「ロミオとジュリエット」風の(・・)恋愛小説を読んだようです。初めて読んだ恋愛小説の「萌え」状態が収まるまで、兄さんの「・・・っはぁ?」は続くのか?大阪弁で言うなら「なんちゅー殺生晒すんじゃ!」ぐらいは言いそうです。この後、罪もないオーフェンガルドさんは兄さんに苦情を訴えられたら面白いと思われ。ちなみにサリアさんは勿論レナちんの心理状態はカンペキに把握していますが、懸命にも敢えて何も言いません。


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