めぐる季節





この物語は完結から一年後くらいを想定しています。





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「・・・お茶をお持ちいたしました」

ノックの後、従卒のアーベルが静かに指揮官室に入って来る。北の領地ノヴァゼムーリャ・セヴェレ砦の指揮官であり、エルファラン国の7番目の将軍、ヨシュア・セス・ファイザルは一刻ほど前に見たのと同じ姿勢で執務机に向かっていた。

「ああ、ご苦労・・・そこに置いてくれ。あ、書類から離してな」

「はい」

「今日もよい天気のようだな・・・」

カリカリとペン先を(きし)らせ、サインをするとペン皿に鵞ペンを放り出し、ファイザルは窓の外に目をやった。

秋は今が盛りで、美しく染まった木々がノヴァゼムーリャの大地を彩っている。書類に目を通してばかりの疲れた目には沁み入るように美しい風景だった。

「お疲れのようですね」

ここのところ働き詰めの上官を気づかうようにアーベルは軽食をポットの傍らに置く。まだ兵士と言うには線の細い黒髪の少年である。

ファイザルは昼食もろくに取っていないようだった。食べかけのパンと煮込みの入った盆が傍らの卓に置き去られ、すっかり冷えて固くなっている。

軍の要職にありながら王都を遠く離れて執務を取ってる為、普段でも多忙なのに、人員の交替の季節は事務連絡のための書簡の作成とやり取り等で、最近は一層自由になる時間がないとの事だった。その煽りを喰らって従卒のアーベルまで忙しい事この上ない。

おまけにファイザルの戦功と人望を慕って都をはじめ、エルファラン国中から若者がファイザルの指揮下の師団に入隊したいと志願者が殺到しているのだ。勿論士官学校卒業者も然りである。彼等の書類に目を通し、第一次の篩にかけるのは一般の士官の仕事だが、ある程度絞られてくるとその中でも優秀な人材を全師団に配分しなくてはならない。

普通なら将軍がこのような事務処理に関わる事は少ないはずだが、一介の兵から将軍にまで上り詰めた叩き上げの戦士の彼は、人物を見極める目に非常に優れている為、軍の上部から委託されて人員の選抜や配分、訓練計画に意見を求められていた。

いくら絞られてきたとは言え、その量たるやまだかなりの物でフ、ァイザルはこの二週間、砦に缶詰めで領主館にも戻れていない。まだまだ新婚なのに・・・である。

「ああ、体の方はこのくらいは何ともないが・・・こう書類の読み書きばかりの仕事が続くとな・・・・・・」

深い湖のような青い瞳は何かに憧れるように、窓の外に凝らされる。起伏に富んだノヴァゼムーリャの荒野は色彩豊かで見ていて飽きない。森の向こうに小さく点在する農家、微かにゼヴェレ川の流れの音。



――何を見つめておいでなのだろうか・・・



アーベルは上官の男らしく整った横顔を憧れの眼差しで見つめた。鉄色の髪が額に落ちかかり精悍さが増している。

「お食事に降りてこられないのでジャヌー殿が心配しておられました。・・・そう言えば、ここ二週間はお屋敷にも戻られておられないとか・・・」

「ああ・・・そうだな」

ファイザルは漸く柔らかそうなパンを手に取った。中にハムや野菜が挟んである。

「美味い」

「それは・・・ようございました。これらの野菜等は近所の農家が朝持ってくるのですってね。私は最近着いたばかりで、この砦以外には知らないのですが、この土地は良いところのようでございますね」

「ああ・・・そうだな。この季節は特に・・・な」

「冬は厳しいと伺っておりますが」

「それは確かに。だが、それでもこの地は平和な良いところだ・・・戦場に比べればな」

「戦のお話もいつか伺いとうございます」

「つまらぬ話だ」

『掃討のセス』の二つ名を持ち敵から恐れられた戦士は苦々しげに言い捨てた。

「それよりお前はまだ領主村を知らなかったな」

「はい。都からまっすぐこちらの砦に入ったもので」

話を変えた上官に素直に少年は頷く。領主村とはノヴァゼムーリャにいくつかある村の中でも最大で、昔から領主館があるところからそう呼ばれている。

「その内案内してやろう。主だった村人にもな」

「ありがとうございます。私はお館も前を通っただけでして・・・閣下のご家族が住まわれているのでございましょう?」

「ああ・・・次の休暇にはお前も来るがいい」

「本当ですか」

ファイザルの言葉にアーベルは顔を輝かす。従卒なれば上官の家族の事も知っておきたい。今まで誰に尋ねてもニヤニヤするだけで教えてくれなかったのだ。彼の好奇心は否応なく高まっていた。

「では・・・他に御用はございませんか」

アーベルは盆を持って一歩下がりながらファイザルに尋ねた。

「今のところはな。ああ、それから、これから陛下宛の重要な手紙を書かねばならんので、俺がいいというまでは誰も部屋に入って欲しくない。お前、廊下でしばらく番をしてくれ」

「畏まりました」

「ああ、その前に・・・」

「はい」

「そろそろ午後一番の早馬が着くころだから、お前見てきてくれないか。もしかしたら、都より至急の書簡があるかもしれない。このところそういうものが多くなったからな・・・」

ファイザルは既に食事を終え、逞しい肩を伏せて書類に向かっている。

「承りました。では直に行って参ります!」

アーベルは恭しく一礼をして出ていった。



彼はつい先日から新しくノヴァゼムーリャ・セヴェレ砦指揮官付きの従卒になった17歳の若者だった。学内では常に首席で卒業後は1年余り地方の基地で研修を経て、この地に配属された。

若い士官候補生にはこの役目はこの上ない栄誉だったから、その事を聞いた時には彼は天に昇るほど光栄な気持ちになった。しかも、仕える相手がこの国で一番優れた司令官であり、戦士であると噂に名高い、ファイザル将軍となれば尚の事だった。

アーベルは廊下に飛び出し、正面階段を駆け降りる。非番の兵士たちが数組固まって話に興じている広大なホールを抜けると、砦の大扉を入った直のところにある役人部屋の扉を叩いて入ると、ちょうど午後の使者が着いたところで、係りの兵士が大量の書簡を仕分けしているところだった。

アーベルが用件を伝えると、年かさの兵士がすぐに指揮官宛の書類を分けてくれた。

「おお!これは至急かつ重要の封緘の印だ。これはすぐにお届けするように」

「はっ!ではただ今これから」

アーベルが分厚く重い皮の小箱を受け取ると急いでホールを横ぎり、再び大階段を昇ろうと段に足を掛けたところで背後にどよめきが起きる。

なんだろうと思わず振り返り、目にした光景にアーベルは目を見張った。

「なんだ・・・?」



階段の真正面の大扉が両方とも開け放たれており、秋の午後の日差しがいっぱいに差し込んで、石の床に大きな光の方形ができていた。そこに長々と影が伸びている。

その影は躊躇なくホールを横切りはじめた。ホールで暇をつぶしていた兵士たちがさっと脇によけ、次々に深礼を取る。



カツカツカツ



人影は小気味よく踵を鳴らしながら、こちらに向かって真っすぐに進んできた。すらりとした体を黒衣に包み、足にぴったりとした長靴をはいている。片手には馬用の鞭を携え、(ひるが)るマントの裾を軽く(さば)きながら滑るように歩く姿は、子鹿のように優美だ。

大股で歩いているために長いマントが扇形に靡いているが、それよりも目立つのはその上に流れる長い髪だった。

それは月光を紡いだような銀色で、背後から注ぐ秋の陽をいっぱいに受け、光の滝のように輝いていた。顔は陰になっていてよく分からないが、ごく若い青年・・・というより少年だと、アーベルはその華奢な陰から判断する。



――誰だ・・・あれは・・・!



明らかに軍人ではない。といっても村人では勿論ない。なのに誰もこの少年を引き留めるどころか、誰何(すいか)しようともしないことが不思議だった。

「あ・・・あの」

声の届く距離にやってきた少年に話しかけようとして、アーベルは言葉を失う。

真正面を見据えた少年は信じられないほど美しかった。光に背を向けているのにその肌の白さは、密やかな光を放つよう。そして、ああ・・・その瞳は・・・



――真紅・・・?



濡れたような瞳は希少な宝玉の色。

それは思わず脇によけた彼にちらりと流し目をくれ、ふっと細められた。アーベルには彼が笑ったように思えた。

「あ・・・あの・・・お待ちください!」

怯む心を抑えてアーベルはどんどん階段を上がってゆく後姿に声を掛ける。少年は彼の声が聞こえないかのように軽々と、ほとんど駆け足で階段を上ってゆく。あっという間にその姿は視界から消えた。

「あ!」

我に帰ったアーベルは慌てて少年の後を追って階段を駆け上がる。



少年は小柄なくせに思いのほか足が早く、この大きな建物の中を熟知しているように幾つもの廊下を通り抜け、階段を上がってゆく。そしてその足はアーベルの目的地と同じ場所に向かっていた。

「お待ちください!」

指揮官室へと向かう廊下の半ばでやっと少年に追いついたアーベルは、思わず大きな声を出していた。

「ん?」

少年はやっと足を止めて振り返った。きりりとした眉を上げ、面白そうにアーベルにその真紅の瞳を向けた。

改めてアーベルはこの美しい少年に向き合う。アーベルより少し背が低く、かなり細い。ゆったりとしたシャツを付けているため、太いベルトが腰の細さを強調している。

「この先は指揮官殿の執務室です!ただ今は入ることができません」

「・・・あなたは誰?」

その容貌に相応しい透き通った声。それは声と言うよりは涼やかな音のようで・・・背はすらりとしているのにまだ変声していないのだろうか?

「私は・・・アーベル、アーベル・ドゥー・ハイゼンと申します。ファイザル将軍閣下付きの従卒です」

アーベルは声に誇らしさが混じるのを抑えられなかったが、目の前の美しい少年はただ面白そうに微笑しただけだった。

「そうなの?・・・それで何故入れないの?」

「指揮官殿は大切な書面を(したた)められておられまして・・・」

「手紙?誰宛?」

「それは、こくお・・・いや、それは言えません」

慌ててアーベルはもごもごと言い訳をしたが遅かったらしい。少年はぱっと気色を顔に浮かべた。

「陛下に?ああ!ではなおさら私が行かなくては・・・あの人は書きだしに迷っているかも知れないもの」

謎のような言葉を吐いて少年は再び(きびす)を返す。

「あ!いや・・・だから!」

「なんだ、どうした」

慌てて止めようとしたアーベルの背後から厳しい声が聞こえた。

「ジャヌー少尉!」

アーベルは驚いて振り返った。

彼はファイザルのかつての侍従である。今は若い兵士たちを束ね、教育する役目を担っているが、快活な青い瞳はまだ少年のようで、いつも気持のよい態度を示す人望ある青年士官だった。しかし、彼はアーベルには見向きもせず、肩ごしに銀髪の少年を見つめている。

「レーニエ様!なぜこちらに?お約束でも?」

「ああ、ジャヌー。久しぶりだね。うん、約束などはない。ただ・・・なかなかお忙しいようだから・・・ちょっと気になって。・・・と言うより、実はお顔を見たくて我慢できなくなったというのが本当なのだけども。遠乗りの足を少し延ばしてここまで来てみたんだ。・・・いいかな?」

少年は紅玉の瞳をちらと執務室の扉に流した。その気の置けない態度に、またしてもアーベルは驚いてしまう。

「はい。朝からお部屋に缶詰で・・・レーニエ様がお顔をお見せになられたらさぞやお喜びになるでしょう」

「そう・・・」

「ジャ、ジャヌー少尉殿!お待ちください。指揮官殿は誰も入れるなとの御厳命で」

「いや、この方はいいのだ」

「え!?」

「ああ、お前は来たばかりで知らないのだな。この方はレーニエ様、ノヴァゼムーリャのご領主様にして、ファイザル将軍閣下の奥方様であられる」

「おく・・・!」

この子鹿のような少年が将軍の奥方だって!?少年・・・いや、、ちがう?えええ~~~~っ!?

「アーベル?忠実にヨシュアに仕えてくれてありがとう。だけど、そう言う訳なのだ。済まないが、ここは通してもらえるかな?」

「は・・・はぁっっ!!!ご無礼いたしました!」

レーニエは美しい頬笑みをアーベルに与えると、弾むような足取りでノックもせずに執務室の扉を開けて中に入ってゆく。





「あ・・・あ・・・あれが指揮官殿の・・・」

レーニエが消えた扉を見つめ、呆然とアーベルは呟いた。

「お美しい方だろ?」

「美しい?ええ・・・驚きました・・・。ですが、あのお姿は・・・まるで」

「ああ、俺も初めてお目にかかった時は少年だと思い込んでいた。知った時はたまげたもんだが・・・あれで御歳21歳になられるのだからな」

「ええっ、まさか・・・あんなに颯爽となさって、まるで・・・」

「わかるよ。だが、初めてお会いした頃とは随分面差しが柔らかく変わられた。それでもあの方がああいう風に振る舞われると、美しい少年のように見えるから俺も未だに驚かされる」

アーベルはまだ信じられないようにレーニエが消えた扉を見ていたが、ずっと持ったままにしていた皮の小箱を見たとたん、弾き飛ばされたように跳び上がった。

「あっ!しまった!私はこれを急いで届けなければ・・・!」

アーベルは自分の使命を思い出し慌てて執務室に向かって駆け出す。

「あ!待て、今は・・・」

ジャヌーが止めようとするが、アーベルには届かず、彼はいきなり扉を開けた。





「・・・・・・・・」

勇んで飛び込んだ足はその場で凍りついた。



執務室の大机に押し倒した華奢な体に伸しかかっているのは、彼の敬愛してやまぬ将軍閣下。逞しい片腕は机上に流れる銀の髪に絡みついて後頭を掴み、もう片方の腕は、彼の体ごしに空に伸ばされた細い手首をがっしりと握っている。



二人は激しい口づけを交わしていた。



仰向けにされた領主の顔はこちらからは見えない。だが、ファイザルはちらりとその鋭い青い光をアーベルに走らせた。しかし、彼はその行為を中断する気はさらさらないらしく、華奢な体を隠すように自分の大きな体でアーベルの視線を遮っただけで妻の唇を貪っている。湿った音がアーベルの耳朶に流れ込んできた。



「・・・・・・っ」

言葉もなくアーベルは後退し、黙って扉を閉めた。



――うわ・・・俺、何を見ちまったんだ・・・



そのままの姿勢で硬直している肩をポンとたたかれ、弱々しく振り返ると、そこには苦笑を浮かべたジャヌーが立っていた。

「あ~~、スマン。一応止めるたんだが、間に合わなかった」

若い兵士を気の毒そうに見つめてジャヌーは言った。

「・・・はぁ」

「お前が何を目にしたか大方想像つくよ」

「・・・はぁ」

「将軍閣下は奥方をそれは熱愛されていてな・・・」

しかし何も姿を見るなりおっぱじめなくてもなぁ・・・と言う言葉を呑みこみ、同情をこめた眼で若い従卆を眺めた。



――こら、当分夢に見るな・・・かわいそうに



がっくりと肩を落とす若者。

「・・・はぁ」

「しかも、最近は忙しくてお館にも戻られていなかったからなぁ・・・。俺たちは適当に休暇を取って、アルエの街あたりで気晴らしができるんだが、閣下はここ数週間、お屋敷にすら戻られなかったから・・・さぞや・・・なぁ。砦内は原則として女人禁制だが・・・まぁ、こんな事は滅多にないと思うから、大目に見てくれ。この階はしばらく立ち入り禁止だ。下に言って来よう」

「・・・・・・」

「まぁ、そう凹まんで・・・お前もおいおい慣れるといいと思うよ?」

そう言って、呆然自失の若い兵士を残し、ジャヌーはその場を立ち去った。







カチャリと扉が開いてファイザルが顔を見せたのは、それからたっぷり半刻後の事だった。

「なんだ、お前」

いたのか、と突き当たりの階段の上にへたり込んでいる若者に彼は何事もなかったように声をかけた。

「ちょうどいい、もう一度お茶を頼もうと思っていたところだ。二人分。下に行ってきてくれ」

「はいぃ」

「なんだ?その声は。ああ、届け物があったんだな、見せなさい」

「あ・・・はい!失礼しました!こちらです」

「ああ、これか・・・まったく一度で済ませりゃいいものを・・・」

ぶつくさ言いながら中身を確認する指揮官の態度はいつもの通りで、着衣も頭髪も些かも乱れたところはなかった。

「ああああのう・・・」

「なんだ」

「お・・・奥方様は・・・」

「ああ、少しお疲れのようだったから奥で休んでいただいている」

ファイザルはまったく平然とした口調でいけしゃあしゃあと言ってのけた。奥と言うのはファイザルの執務室の隣の私室の事である。

「なに、心配はいらん。すぐによくなられる。それより早くお茶を頼む。うんと熱くして、それから・・・そうだな何か軽い焼き菓子を添えてくれ」

「は・・・はあっ!(かしこ)まりました」

アーベルはよろよろと立ち上がった。



「お前の役目は以前は俺の役割だったのだがな・・・なんだか妬けるな」

厨房で再びアーベルと顔を合わせたジャヌーは、冗談ともつかぬ口調で若い従卒に言った。

「いつもお二人に付き添って・・・閣下の滅多に見られぬ顔を見たり、レーニエ様のお世話をしたり・・・あの頃は楽しかったなぁ・・・」

ジャヌーは青い目を細めて懐かしむように呟いた。

「お世話・・・?」

「ああ・・・あの方はご聡明なんだが、ご身分がご身分なだけに世間知らずなところがあって・・・昔は可愛らしい間違いを一杯されて・・・ひとつ一つお教えする度にそりゃぁ素直に驚かれて・・・」

「・・・」

懐かしむように遠い目をする若い士官にアーベル自身も驚く。一体どういう関係だったのだろう、この人たちは。

「あのぅ、ご身分っ・・・て?」

「ああ、お前はまだ何にも知らないんだったな。その内分かる。今では秘密ではないからな。驚くぞ」

「はぁ」

「ああ、スマン。お茶をご所望だったんだな。冷めないうちに早く行けよ」

少年の問いかけるような視線に気付いたジャヌーは照れたようにアーベルを追いたてた。

「何を見ても落ち着くんだぞ!」





更に半刻後―――





「ジャヌー、今から俺は帰る。後はソランに任せても何とかなるはずだ」

広い背の後ろに美しい娘が立っている。さっきは少年としか見えなかったのに少しうるんだ瞳や、うっすら染まった頬は確かに異性のものであった。アーベルは正視する事が出来ず、足元の床に視線を落としていた。

「はっ!」

あんなに積み上げられた仕事に一体どうやって折り合いをつけたんですか?とはジャヌーは敢えて聞かない。彼は今までで一番長くファイザルの従卒を務めた男なのだ。上官の心の機微(きび)は一番よく分かっている。

「4人同行しろ。お前もな。レーニエ様の話ではサリアさんが寂しがっていたと言う事だ。二日間休暇をやる」

ファイザルがにやりと口角を上げた。彼もまた部下の心情をよく分かっていた。

「は?はっ!承りました」

流石に嬉しげにジャヌーも笑った。

「ああ、それとお前も一緒に来るように」

付け足すように青い瞳がアーベルを射た。

「は?」

「お前、この地をまだ知らんと言ってたろう?館の者にも色々教えてもらうがいい。色々・・・な」

「は・・・はっ」

この夫婦の睦まじい様子を今夜から見せつけられるのか・・・若いアーベルはもじもじと煮え切らぬ返事を返した。





「流石に・・・可哀そうだったかな?」

妻を腕の中に抱きこんでファイザルが呟く。彼らの前後にはそれぞれ二騎の護衛が領主を守っていた。

辺りはすっかり陽が落ち、名残の夕日が森の梢に引っかかっているのみだ。群青の空には星が瞬き始めていた。

「ヨシュア、なぁに?」

彼の視線を追ってジャヌーと直ぐ前を行く黒髪の少年を見やりながらレーニエは尋ねた。彼はレーニエの馬の手綱を引いて馬に乗っている。

「いえ、なんでもありません」

ファイザルは笑いをかみ殺した。あれからお茶を持ってきたアーベルに、私室から起き出したレーニエが好奇心を起こすのをファイザルも止めきれなかったのである。寝起きのしどけない様子でレーニエは、赤面しているアーベルに質問の嵐をぶつけたのであった。本当ならいろいろ聞きたいのは彼の方であったろうに。

普段なら妻のこんな様子は絶対他の男に見せないのだが、今回は自分にも些か(やま)しいところのあるファイザルはきつくは言えなかったのだ。ばかりか、心なしか前屈みな少年にファイザルは憐憫の情を禁じえなかった。



「あの子・・・かわいい・・・欲しい」

夢見るような囁きがファイザルを我に返す。

「え!?なんですって?」

夫の腕の中で何を言い出すのかこの子は。

「あんな子がいい」

「は?」

夫の前でまさかの浮気宣言とも取れる発言に、妻を抱く腕にぐっと力が籠る。

「あんな子が欲しい」

何も気づかないレーニエは何気に平らかな自分の腹を撫でた。その仕草はまるで・・・。

「・・・レナ?まさか・・・」

またしても違う驚きが歴戦の勇士を襲う。そこでやっと気付いたようにレーニエは夫を見上げた。

「・・・え?ああ、それはまだ。・・・多分」

「・・・なんだ」

がっかりしたような、ほっとしたような複雑な気持ち。まったくいつまでこの子に振り回されるのだろうか?

「うふふふふ。もしいつか恵まれるのなら、あなたによく似ている男の子がいいな」

嬉しそうに妻は鞍の上で伸びあがって夫の頬に口づけた。仕方なさそうにファイザルも笑う。

「俺は・・・あなたそっくりの女の子がいい」

「じゃあ、両方産もうかな?」

事も無げにレーニエは請け合った。

「この細腰で?」

自分の片手で包みこめるのに。

「へいき」

自信たっぷりな妻の下腹の辺りを大きな掌が滑った。途端に身を竦める様子が可愛くてならない。

「きゃ」

「ふ・・・それなら今夜も覚悟なさいね」

耳たぶに触れる熱い囁きにますます体が縮こまる。







ノヴァゼムーリャは今日も平和に豊かに暮れてゆく。昼間暖かだった風は今はひんやりと次の季節の気配を(はら)む。ファイザルはマントでレーニエをすっぽりと覆い隠した。もう直き厳しい冬がこの地を白く覆うだろう。しかし、それさえ苦にならない。この温もりがあるのならば。





二人に新たな喜びを(もたら)すのは次の春のこと―――――







◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇







このお話も完結前に書いていたものですが、掘り起こして校正し、今回のアップとなりました。純情少年アーベル君の受難は始まったばかりです。レーニエちゃん、21歳になったばかりの頃。この直ぐ後のお話が「春を待つ狼」となります。


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