嵐の後

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――ああ、雲が切れてゆく・・・・・・





レーニエは領主館の自室の露台から東の空を見つめた。

厚い雲のうねりが少しずつ解けてゆく。風は大分収まったようだが、それでも長衣の裾と、長い髪は大きくはためく。夏の初めなのに、風は冷たく、かなりの湿り気を帯びていた。





二日間荒れ狂った嵐は昨日からやっと収まりつつあったが、領主村を突っ切って流れるリーム川は昨日からどんどんその水嵩を増していた。

嵐の最中(さなか)、村中を巡回していた兵士たちがその事に気づき、このままでは堤防を兼ねた土手が低いところで決壊する可能性があると、すぐさま領主とその夫に伝令を飛ばした。そして、知らせを受けたファイザル将軍が直ちにその指揮下の隊に、近隣の住民の避難誘導と、護岸の補強の指示を出したのが昨日の昼前である。

もしリーム川が決壊すれば、領主村の南西部一帯が大きな被害に遭ってしまう。そんな事にはさせじと軍隊だけでなく、領主村中の男たちが総出で土嚢を積み、堤防を補強していた。

闘将の誉れ高いヨシュア・セス・ファイザル将軍も自ら陣頭指揮に立ち、この何時、牙を剥くかもしれない巨大な敵――怒涛の流れと戦っていた。

昨日の段階で雨は一旦収まっていたが、黒雲は厚く渦を巻きながら空を埋めつくし、再び豪雨を呼ぶかもしれず、男たちは泥まみれになりながら、陽の残る内に出来る限りの土嚢を積み警戒していたが、日が落ちると真の闇である。暗闇の中では水も陸(おか)も見分けがつかない。そんな時に川が決壊したらあっという間に甚大な被害に見舞われてしまうだろう。

しかし、村の男たちは危険があるにも関わらず、自分たちの田畑の傍から離れようとしなかった。出来るものなら護岸の補強で(しの)ぎたい。それが麦秋(麦の収穫期・初夏)を前にした村人たちの悲願である。

貧しい人々の冬場の糧や、わずかな現金収入となる作物を、ファイザルも無駄にはしたくはない。しかし、もし急に劇的に水位が上がって川が氾濫する危険が間近に迫ったら、一時的な対処である土嚢積みではお話にならない。溢れた濁流は畑はおろか、家も、家畜も、人々すらあっという間に飲み込んでしまうだろう。

ファイザルは考えた末、最も危険な地域に夜っぴいて大松明を焚かせ、水位の行方を見守るように己の部下に命じた。しかし、万が一氾濫の危険が迫れば、武器を以てしてでも村人を避難させる事も彼の役割になる。

「よぉし、そこはその位にしておけ!向こう側にまだ低い個所がある」

「土嚢をもっと持ってこい!急げ!後、2リベルは積み上げろ!」

男たちはずぶ濡れ、泥まみれになりながら夏の嵐と戦っていた。








「今年は雪が少なかった分、夏の降雨が多いと言う事になるのか?」

昨日の夕刻、領主は避難してきた南西地区の村人の事を心配して館にやって来た村長のキダムに訪ねた。

「いいえ、夏の初めの嵐は今までにも何回もありましたが、こんなに酷いのは記憶にありませぬ。リームの流れは普段穏やかなだけに、我々にも油断があったのです」

リームの流れはセヴェレの激流と違い、普段は穏やかに荒野を潤している。しかし、村の南部でゆるやかに蛇行して東に流れている為、その部分の川底に長年の土砂が堆積しているのかもしれなかった。

「確かに南東部分では随分浅瀬になって、たくさんの細かい小川のようなものができてはおりました」

「・・・成程。では水位の低い時期を見て川を()き止め、底を(さら)わなければいけないと言う事か・・・本格的な護岸工事も必要かもしれぬな。・・・もし大規模な浚渫(しゅんせつ)工事になるなら都から専門家を呼んだり、費用の相談もしなくてはならぬ」

「御意。しかし、先ずはこの嵐が収まらない事には・・・」

「うん・・・」

川底の浚渫も護岸の補強も、こんな嵐が来た今になってやっと思いついた事だ。普段からもっとしっかり治水について考えていれば、こんな事にはならなかったかも知れないと、今更ながらにレーニエは自分の力の無さを思い知る。

領主館には、万が一リームの流れが氾濫した時の為に、流されてしまう可能性のある地域に住む女子供、老人たちが避難していた。ホールや大広間、厩はそんな人たちであふれ、二階の空き部屋は小さな子どもや病人達が使うようにとレーニエは手配したので、人々は領主館の堅固な城壁の中で、夜通し帰らぬ男たちの無事をじっと案じている。



勿論領主自身も―――



――ヨシュア・・・無事で戻って・・・!



そう祈り続けた一昼夜であった。



今、やっと露台に出られるほど天候が回復し、領主はまだ強い風に長い髪を梳かせるに任せ、村の方向に目を凝らしている。

高みから見る領主村は嵐の後とはいえ心が締め付けられるほど美しい。垂れこめていた雲が切れはじめ、天空から黄色い光の帯が幾筋も荒野に降りている。

レーニエは吹き飛ばされそうになるショールを胸の前で握りしめながら、立ち尽くしていた。



太陽が射さないのですっかり忘れ果てていたが、今は正午に近い頃合いなのだ。心配された嵐の再来もこの分ではもうないだろう。後一刻もすれば荒野はいつもの通り、美しい日差しに充ち溢れるに違いない。

普段ならばレーニエは嵐や、嵐の後が好きだった。

酷い雨風は人々に被害が出ない程度ならば、雨の強さや風の音にじっと耳を澄ませ、稲妻ですら美しいとさえ思う。雷嫌いのサリアからは「どうかしておられますわ」と何度も苦情を言われたが、レーニエは窓際で嵐を眺めるのを止めなかった。



しかし―――



今、レーニエはそれらを少しも楽しめない。もうこれで半時近く、露台から村を見つめている。

今朝がた入った報告では、油断はできないものの、水嵩は堤防を乗り越えるまでには至らず、人々は無事なようだった。だが、それ以降の知らせはまだない。万が一決壊すればすぐに分かるだろうとは思うが、彼女の心配は尽きなかった。



―――と。



村に至る街道から早く動くものがこちらにやってくる。それは一頭の黒馬で、手綱を握っているのは、青い旗を振っている若い兵士だった。



――おお、あれは・・・・・・



「レーニエ様!ジャヌーですわ!青い布を持っています。無事だったのですわ!」

レーニエの背後からサリアが叫んだ!サリアは嬉しそうに手すりから身を乗り出して手を振った。青い旗は警戒解除の印である。レーニエも安堵のあまり崩れそうな膝を奮い立たせながら、露台の壁に縋りついた。

「ああ・・・本当だ・・・よかった・・・」

「私、下へ行って皆に知らせてきます!そして、すぐに厨房の準備を!直に皆が帰って来ますわね!」

サリアはそう言って身軽に屋内に駆けこんでいった。









疲弊しきった男たちの一軍が領主館に帰って来たのは一刻の後―――。

広い前庭は無事を喜び合う家族たちでいっぱいだった。

男達は夜通し警戒を続けたが、結局未明に危険水位すれすれで水は引いて行き、東の空が薄明るくなった時、夏の嵐は去った。ファイザルはもう大丈夫だろうと判断を下したが、念のために正午になって漸く警戒を解いたのだった。

ロクに食事も睡眠も取らずに働いた男たちの為、レーニエの命でセバストとオリイが女たちを指揮し、暖かい食事を用意させていた。疲れ切った男たちは、村人も兵士も分け隔てなく、具のたっぷり入ったシチューと焼き立てのパンを思う存分食べ、記録に残る大嵐を凌いだ事を祝い、ほとんど怪我人もでなかった事をファイザルに感謝した。



そうして村人たちは領主夫妻に篤く礼を述べ、家族一緒に無事だった我が家の方へと帰ってゆく。兵士達もある者は砦に戻り、ある者は村に残る事になった。

あんなに騒然としていた領主館は瞬く間に静かになり、まるで何事もなかったかのような夏の午後が戻って来た。

いつの間にか空は晴れ渡り、小鳥の声が梢に響いている。





「ただ今戻りました」

ファイザルが私室に戻って来たのは、村を巡回する兵たちの最後の一隊にまで指示を出し終えてからであった。



皆が食事にありついている間も、彼は報告を受けたり、命令を発したりと休むことなく立ち働き、心配したジャヌーが食べやすいようにと運んできた、肉や野菜を挟んだパンを立ちながら食べると言うありさまだったのだ。

彼の妻である領主は皆を出迎え、無事を喜び合った後、まだまだ忙しくしている夫に遠慮して奥に下がっていた。

怪我をした者には医師の手配をしたり、空き部屋を病室として使う指示を出したりしていたが、そもそも大きな怪我人もなかったので彼女の仕事はすぐに終わり、下でウロウロして皆の気を遣わせたり、夫の邪魔になってはいけないと思い、大人しく自室に引きさがっていたのだ。



「ヨシュア・・・!」

やっと戻って来た夫を迎える為、レーニエは所在無げに手にしていた本を膝から落として駆け寄った。

「あ・・・あ、抱きついてはいけない。あなたが汚れてしまう」

ファイザルは首に抱きつこうと伸びあがる妻を苦笑して制する。

「そんなの構わない・・・ヨシュア!ご無事で・・・」

「心配をかけた。レナ、俺はこの通り大丈夫だ。あなたの村が無事で良かった」

「あなたのおかげだ・・・私たちを守ってくれてありがとう」

ファイザルは上着を脱いではいたが、下に来ているシャツにまで泥汚れが染みている。しかし、レーニエはそんな事には些かも頓着せず、逞しい胸に頬を寄せた。

「ずっと待っていたの。だけど、あなたは酷く忙しかったし、お疲れだし、我儘を言ってはいけないと思って・・・」

ファイザルはそんな妻が可愛くてならないと言うように、小さな天骨に口づけを落とした。

「皆貴女の心遣いに感謝をしていた」

「そぉ?ああ・・・そうだ、さぞお疲れだろう。セバストが湯を用意してくれている」

思い出したようにレーニエは隣の浴室へ夫を(いざな)う。

「それはありがたい。すっかり汚れてしまった。これではあなたを抱きしめられない・・・では失礼してお湯を頂きます」

夫が喜ぶ事を期待して顔を上げたレーニエにファイザルは嬉しそうに頷いた。

「うん!」



明るい浴室は湯気と清涼な香りで満たされていた。

それはリルアの花風呂のような甘い香りではなく、ピリリとした香ばしさが鼻腔をくすぐる薬草の香りで、リルアよりもこちらの方を好むファイザルの嗜好を知るセバストが、湯の中にたばねた(つか)ごと浸しておいてくれたのだ。他にも薬用効果のある木の実や、乾燥させた葉が湯面に浮かんでいる。

汚れきった衣服を脱ぎ棄ててファイザルが大きな浴槽に浸り、うっすら緑に染まった湯に長々と手足を伸ばしていると、ガウンを脱いだレーニエが彼の着替えを持って入って来た。

「ご領主自らそんな事をしなくとも」

「いいんだ・・・私は何にもできなかったからせめてこれぐらいさせて」

そう言うとレーニエは浴槽に寄り掛かって、夫の逞しい肩に手桶で湯を掛けたり、指で鉄色の髪を梳いたりとまめまめしく世話を焼く。夏服の部屋着は腕も露わで、姫御前(ひめごぜ)のあられも御座らぬと言う風情だろうか。しかし、ファイザルは大人しく妻の好きにさせていた。

「ああ・・・いい心持ちだ」

「あ・・・こんなに傷が・・・湯は沁みない?」

おそらく土嚢や杭などを運んだ時に付いたものだろう、ファイザルの肩や腕には生々しく沢山の擦り傷や打撲の跡がついていた。元々彼の体には無数の刀傷や矢傷がある。その内の一つはレーニエの記憶に未だ生々しい。赤い瞳が曇った。

「ああ、ただの擦過傷(さっかしょう)です?少し染みるが、なんともありません。後であなたに薬を塗ってもらえたらあっという間に治る」

心配そうに傷を見つめるレーニエにファイザルは明るく笑ってみせる。

「済まない・・・キダム殿とも話していたのだが、一度きちんとリーム川の測量などをしてみようと思う。必要なら都から技術者を呼んで工事をさせる。私がもっと早くに気がついていたら・・・」

「まぁ、それは仕方がない。こんな嵐は滅多にない事だし。しかしよい機会だ、一度きちんと調べておいた方がよいかもしれないな・・・」

「うん・・・今までが抜かっていたのだ・・・私が至らぬせいで皆に・・・あなたに危ない目にあわせて・・・きゃ!」



パシャン



「ヨシュ・・・何を?」

両手を握りしめたファイザルがうまく水鉄砲をレーニエに命中させたのだ。顔をびしょびしょにした妻がきょとんとしているのへひょいと手を伸ばし、後頭を捉えるとファイザルは妻の唇を塞いだ。濡れた彼の髪から落ちた雫が頬を伝う。湯の音とは異なる水音が浴室に響いた。二日ぶりに味わう柔らかな感触。ほのかにぴりっとした薬草の香りがする。彼は夢中で舌を絡めた。

「あ・・・」

「それ以上自分を悪く言うと、頭から湯に突っ込みますよ。」

言葉とは裏腹にレーニエが濡れないように、ファイザルは身を起こしてレーニエの顎を捉える。

「あふ・・・んぅ・・・」

漸く唇を離し、頬を掌で挟んで覗きこむ。長い睫毛が半分程伏せられているが、眼の下の柔らかい皮膚がうっすらくすんでいるのはその所為だけではないようだった。太い指先がその部分をなぞってゆく。

「あなたも疲れているのだろう・・・目の下に隈が」

「それは・・・とても心配だったから。でも、あなた程じゃない」

「ふ・・・あなたと言う人は・・・」

再び両の唇を軽く啄ばむ。

「んん・・・」

「さぁ、もう上がります。湯だってしまいそうだ・・・外に出て下さい」

もっとと強請(ねだ)るようにうっすらと開かれた、甘い唇。もっと味わいたいのは山々だったが、これ以上湯に浸っていると別の意味で湯あたりしてしまいそうだった。

「それとも俺の裸をもっと見たい?構わないが」

「あ・・・!す・・・済まない」

レーニエは真っ赤になって慌てている。ファイザルがわざと勢いよく立ちあがると、小さな悲鳴を上げて妻は浴室から逃げて行った。



「ああ、すっきりした」

レーニエが用意しておいたガウンも(まと)わず、腰に布を巻いただけでファイザルはすたすたと浴室から出てくる。

室内もまた明るかった。半分開いた窓から涼しい風が柔らかく吹き込み、夏用のレースの(とばり)を揺らしている。三日前の大嵐の時には昼間でも恐ろしいくらいに陽が(かげ)っていたのが、すでに想像できない。

「あ・・・これ・・・よければ」

レーニエが冷えた酒の入った玻璃の杯を差し出した。傷だらけの逞しい上半身。夫が杯を受け取ると、彼女はまだ水滴の付いた肌を手布で優しく拭ってやる。(へそ)の下に巻かれた布が落ちないように注意して。

「これは・・・至れりつくせり」

「もっと飲む?」

「いいえ、今はただひたすら眠いです」

「あ・・・そうだった・・・では寝間着を」

「いえ、このままで」

そう言うとファイザルはどんどん寝台に向かって歩いてゆき、腰にまいていた布をその辺に放り投げ、逞しく引き締まった裸身を晒すと、そのまま掛け布を(まく)って清潔な敷布の上に横になった。

「さぁ、あなたも来て」

そう言うとファイザルは掛け布をちょいと差し上げて妻を誘う。

「え!?」

「どうせ、ろくすっぽ眠っていないのでしょう?早く来なさい」

「でも、あなたはお疲れで・・・」

自分は別室で休もうと思っていたレーニエは夫の誘いに応じるのを躊躇った。

「別に今すぐどうこうしようって訳じゃない。さぁ・・・おいで。ぐずぐずしていると、無理やり抱き上げて寝台に押し込めますよ。俺は眠いんです」



――それって裸のまま・・・って事?



そぉれはかなり恥ずかしい。けれど夫は既に半目になって妻を待ちかねている。

観念したレーニエは誘われるまま夫の横に潜り込んだ。直ぐに腕がのびてきて薄い部屋着を取り去った。

「あっ!何を・・・今眠いって」

「だから眠るんです。あなたの肌を直に感じていた方がぐっすり眠れる」

熱を帯びた腕が直ぐに体に巻きつき、体が密着する。太ももに当たる感触が恥ずかしくて文句を言いたいのだが、こうなったらレーニエにはもうどうしようもない。

「・・・」

「それにどうせ、目覚めたら直ぐにあなたを抱くからこの方がいい」

「え・・・ええ!?」

「ああ、いい気持ちだ・・・」

夫の大きくて硬い掌が首から背中、そして柔らかい小さな尻を撫でてゆく。何回かそうしながら彼は眼を閉じた。

程良く糊のきいた敷布の冷たさと、暖かい柔肌が心地いい。甘い香りと薬草の匂いが混じり合い、頭の芯から弛緩していくようだった。体に積った疲労にさえ満足を感じた。まだ日が高いと言うのに、妻を抱いて眠る。



――ああ、これ以上の贅沢はないな



ファイザルは満足そうに大きな吐息をついた。くっついた胸から直接レーニエの動悸が伝わる。



――くく・・・随分慌てておられるようだが・・・今はこのまま眠らせていただこう



最後に浮かんだ思考はすぐに眠りの淵に融けていった。



嵐の後のノヴァゼムーリャの空は何処までも透明に、窓外に広がっていた。











◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇



この作品は本編終了前に書いたものです。完結後の話でしたので、ずっとお蔵入りでしたが、今回修正して公開する事にしました。働き者の(いろんな面で)兄さんのお話。



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