9
「あなたを攫って逃げると言ったら、俺に付いてきてくださいますか?」
大きな瞳更に見開かれ、か細く息を引く、刹那の後―――
「はい」
「ふっ・・・」
ふっくらとした魅惑的な唇から発せられたのは、これ以上は無い程の簡潔な応え。少しぐらいは迷っていいのに。ファイザルは思わず笑ってしまった。
―――まったくこの姫君に懸っては
敵わない。
「・・・?」
まさか笑われると思っていなかったのか、
忽ち不安そうに
顰められる細い眉。
「・・・あの・・・ヨシュア?」
「ふ・・・そんな事をあっさり言ってしまわれてよいのですか」
ぐいと顔を近づけるとファイザルは重ねて聞いた。
「俺は恐ろしい男です。見たでしょう、あの血なまぐさい戦いを。あなたが正視できないような
悍ましい戦場にずっとこの身を沈ませて・・・気づきませんか?俺の体から立ち昇る血の匂いに」
返事の代わりにレーニエは黒い軍服に包まれた広い胸に頬を寄せた。まるで彼の言葉を確かめるように。ファイザルの言葉は何時もどうしようもなく真実で、なんと言っていいのか分からない。ただこの人が自分のしてきた事で苦しんでいる、それだけは良く分かった。だから、全てを受け入れたいそんな気持ちを込めて。
「・・・」
分厚い布をぎゅっと掴む細く白い指。まるで自分の罪を共有しようとするかのように寄せられた柔らかな頬。
ふいに鋭く顔を歪めるとファイザルは激しい勢いでレーニエを掻き抱いた。捕まるものもない高い壁の上で。
「あ!」
「レナ・・・レナ・・・こんなに穢れた手であなたを抱ける訳も無い・・・それでも俺はあなたを諦められない」
風の吹きすさぶアローウィンの古城壁。
男は華奢な背が
撓るほどきつく腕を回し、覆い被さる。平原から噴き上げる強い風が彼らを包んだ。遠い地平線から雲が湧き上がる、灰色と黄色で彩られた空を背景に、二人の人影は一つに重なる。
「愛している」
男の言葉は風が
浚ってゆくには余りに重かった。
「俺は・・・」
どのくらいの時間が流れたのか、やがてファイザルは絞り出すような声で囁いた。
「・・・」
「俺は酷く腹を立てていました・・・」
「私に・・・?」
「それもある。だが、それだけではなかった。柄にもなくこの一年、無我夢中で働いたのは全てあなたを手に入れる為だったのに」
「え?」
ファイザルは腕を伸ばしてレーニエから身を引く。しかし、強い力で両の肩を掴んだ。
「例えこの身が罪に
塗れようとも、あなたを乞える立場に近づきたかった・・・俺には戦う事しかできなかったから、勝って・・・ひたすら勝って地位を得ようと」
「・・・」
「それなのに、その願いも叶わぬ内にあなたはここにやって来られた。あれほどひた隠しにしておられたご身分までも明らかにされ、俺にはどうしようもなく手が届かない遠い存在になられて・・・おまけに和平の為のご婚約の話まで持ち上がる始末だ」
「・・・でも、それは」
レーニエに言葉を挟むことを許さず、自分を責めるように男は続けた。
「だがそれでも俺はあなたを守らなければならなかった。少し前までこの地は戦場だったのです。どこに潜んでいるかもしれないドーミエの心酔者の情報もありましたし」
「・・・」
「俺は確かに戦を終わりに導くことには成功したかもしれない。表向きは。しかし、その裏で無性に腹が立ち、混乱し、絶望していた。その上に・・・」
精悍な眉が険しく歪む。
「あの王子の出現だ・・・金の王子に銀の王女・・・皆は口をそろえて褒めそやす。俺には無い身分も、若さも、美貌も、全てもったあの男の傍に立つあなたを見て、俺は気が狂いそうだった・・・」
「ヨシュア・・・」
「王女殿下・・・あなたは紛れもなく国王陛下のただ一人のお子だ。そして陛下はあなたを公式に認められるおつもりだという。例え隣国の王子との婚姻の話が白紙に戻ったとしても、あなたの元にはこれからもひっきりなしにご縁談が持ち込まれるだろう。俺の出る幕等ありはしない。だからさっさと思い切ろうと・・・・・・なのに・・・くそっ!」
「ヨシュア!」
言葉とは裏腹に彼は腕に力を込める。衣の下の折れそうな骨を指に感じた。
「・・・出来なかった。どう頑張ってみても」
「・・・」
「ご立派でした・・・あなたは。流石にあのお母上とお父上のお子です。私だけでなく、他の皆もそう思ったはずです。おかげで平和は成るでしょう」
「あなたが命がけでもたらした平和ではないか・・・」
「俺はただの人殺しだ」
「違う!あなたこそ命を掛けて・・・」
「俺は国の為に戦ったんじゃない!
悉皆我欲です。こんな血に汚れた手であなたに触れる事もおこがましいのに・・・」
何か言いかけようとする口を容赦なく遮り、彼は苦しそうに続けた。
「あなたが俺のものになどなる訳がない。なのに、俺はあなたを想い切れない・・・無様で未練がましい男です。俺は・・・」
限りなく苦々しい頬笑み。
「・・・さっきこの場所に立つあなたを見て、俺が一瞬何を思ったか白状いたしましょう」
「・・・」
「あなたを抱いてこの城壁から飛べば・・・」
「わ!」
突然ファイザルはレーニエを掬い上げ、絶壁へと一歩踏み出した。レーニエの真下にはもう地面はない。
「あなたを誰にも渡さずにすむ」
「・・・!」
レーニエは腕を伸ばして力いっぱい逞しい首にしがみついた。
「ふ・・・申し訳ありません」
元の場所に後退し、そっと彼女を下ろすとファイザルは皮肉に笑った。
「だが、そうすればあなたを誰かに奪われるのをみすみす許すこともなく・・・俺だけのものにしてあなたをこの腕に永久に閉じ込められる」
ファイザルは腕を回してレーニエをしっかり抱きなおしたが、やがてその肩が細かく震えていることを感じた。
「・・・すみません」
あまりに怖がらせ過ぎたかと思わず顔を覗き込むと・・・・・・
「・・・・・・」
腕の中の娘は、大きな眼に一杯の涙を溜めている。
「申し訳ありません。悪い冗談でした、俺があなたを傷つけられる訳がないでしょう・・・もう泣かないで」
慌てて言い訳してみても、大粒の涙が睫毛からぽろぽろとこぼれ出すのを堰き止められない。
弱々しく見える割にはめったに泣かないレーニエの涙に、ファイザルはだんだん心配になってきた。
「お許しを・・・レナ」
手袋の先で零れる雫を吸ってやる。レーニエは自分でも睫毛を
瞬いて涙を払った。
「ふ・・・ご・・・めんなさい。でも嬉しくて・・・」
「・・・は?」
「思わず泣いてしまった・・・」
――何を言ってるんだ、この子は
たった今、殺されそうになったというのに。
「ではあなたは私を嫌いじゃないんだ・・・」
まだ濡れた瞳が微笑みを浮かべる。
「俺があなたを嫌うですって!?」
たった今愛していると言ったばかりなのに聞いてなかったのかこの子は、と言うような顔で彼は腕の中で微笑んでいる娘を見下ろした。涙の痕はまだその頬から消えてはいない。
「おかしくなりそうな程愛しているんですが」
「本当?・・・でも怒っているともおっしゃってたし・・・」
「だからそれは俺が・・・うわ!」
突然腕の中に柔らかいものが飛び込んできた、と、同時に掴んでいたマントが
靡いて彼の視界を覆う。
こんな華奢な娘に飛び付かれてもびくともしないが、いきなりの事で心構えができていなかった。この強風、しかもこの高所で視界を遮られては非常に危険だった。
「お・・・危ないではないですか!風に飛ばされたらどうするんです」
ついさっき自分がした事を思い出すと強くは叱れないファイザルは、慌ててレーニエを支える。マントが大きく風を孕むと目方の無い娘は容易くよろけてしまうだろう。
「飛んで見たい」
太い首にしがみつくとつま先まで浮いてしまう。それでも娘は構わずにぶら下がっている。二年前のあの頃でさえ、こんな風にされた事はなかった。
「離しなさい」
「嫌・・・」
「レナ!」
終に雷が落ちた。
「・・・」
思い切り眉が下がる。
ゆっくりとファイザルは身を屈めてぶらぶらしているつま先を石の上に下ろしてやる。レーニエは渋々体を離した。
「・・・いい加減にしなさいよ。ほらちゃんと外套の裾を持って!――そうだ、思い出した。あなたにどうしてもお聞きしたい事があったんだ」
「・・・え?」
レーニエはびくりと身を竦ませた。この人がこう言うものの言い方をする時は、たいてい叱られる時なのだ。
「あの時何故お逃げにならなかったのです」
「あの時って?」
「路地での襲撃の際、射手が狙いをつけていたでしょう?」
「ああ・・・ええと・・・小さい子がいたから」
「例えそうであっても、身を竦めるとか頭を庇うとか、やりようはあったはずだ。なのに・・・」
真正面から静かに敵を見据えて・・・・・・
「・・・あの時あなたは射手を前にして動こうともしなかったではないですか・・・まさか死ぬおつもりだったのですか?」
「・・・わからない。忘れた」
「・・・」
あの恐ろしい一瞬を思い出すだけで大の男がぞっと身を震わすものを、姫君はあっさり「忘れた」とか
宣う。
「忘れたですって・・・?」
「う・・・ん、よく思い出せない・・・ただ逃げるわけにはいかなかった。声をあげたら注意を反らせて誰かが怪我をするかもしれなかったから。それにあなたの事やいろいろあって、正常な判断ができなくなっていた・・・と思う」
相変わらず自分の事には無頓着な娘の様子に、ファイザルは大きな溜息をついた。
「全て俺の責任です。全力であなたに嫌われるように振る舞ってきたし」
レーニエに自分を見限らせ、自らもレーニエを諦める為につまらぬ茶番を演じた事を苦々しい気持ちでファイザルは思い起こした。
「もう大丈夫。へいき」
レーニエは大きく頷いた。
「はぁ?」
―― 一体、どういう自信の持ち方だ・・・
「・・・二度とあんな真似をなさらないでください。百年は寿命が縮みました」
「ごめんなさい」
「全くあなたと言う方は・・・俺はこれから一生振り回されるのかなぁ」
ファイザルはこれで何度目か分からない溜息をつく。
「一生・・・?」
その意味を解しかねてレーニエは小首を傾げた。
「一生です。ですが、あなたは本気で俺のものになってくれると言うのですか。自分でも愛想が尽きるほど度量が狭く、嫉妬深い男ですが」
「・・・私はとっくにあなたのものだ」
一生の意味を考え込みながら、しかしレーニエはあっさり受け合う。
――ああ、敵わない。一体どうしたらいいんだ
ファイザルは懸命に自重するが、頬の筋肉が緩むのを肌の奥で感じ、慌てて引き締める。
「可愛いいレナ・・・だがまだ続きがあります」
「・・・続き?」
「あなたと俺では空恐ろしいくらい身分に差がある。ドルトン殿の話を聞いて秘かに動いてはいるが、よしんば俺の思惑がうまくいかなくとも、俺はもうあなたを離せない。」
「攫ってくれるの?」
唆すように、歌うようにレーニエは無邪気に尋ねる。
「最後の手段ではね。でも先ずは正攻法」
「なぁんだ」
「なぁんだって・・・あのね。俺は勝ち目の無い戦はしません。危ない橋は一等最後に渡るものです。だから、ここからは性根を据えて本気で動かなければ」
「動く?」
「ええ。俺にだって覚悟があります。あなたを手に入れる為には何をしたっていい・・・だが慎重にはならないと」
不埒な事を言いながらファイザルは笑った。
「そんなに面倒なら攫えばいい」
「まったく・・・あなたは何も知らないからそんな事をおっしゃるが、俺と逃げたって間違いなく苦労しますよ」
「平気。こんな役立たずな私だけれども、料理も掃除も何でもしてみせよう」
「はぁ・・・まさかいくら俺が無能でも、あなたにそんな事はさせられませんが」
ファイザルはやれやれと頭を振ったが、姫君の崇高な自己犠牲発言に思わず厳しい目元が
綻んだ。
「ヨシュア・・・私にできないと思っているな」
馬鹿にされたと思い、レーニエは可愛い唇を尖らせて男を睨んだ。
「あなたがするなら俺の方が上手でしょうよ。だがまぁ、いくらなんでもそこまでは落ちぶれちゃいません。今まで使い道がなかっただけで放っておきましたが、俺にだってある程度の財はあります。これでも最前線で長く働いている」
「そうなの・・・?」
「そうです。さぁ、そろそろ下に戻らないと。セルバローの奴がじりじりしているはずだ。こんな危険な所にうっかり長居をしてしまった」
さっきからずっと危うい城壁の縁に立っていたのだ。その事を完全に失念していた恋人達である。己の恋人の事しか見えていない。
「あ・・・待って」
レーニエを支えて矢狭間を今度は内側へ飛び降りようとしたファイザルの腕がちょいと引かれる。
「なんですか?」
「すっかり忘れていたが、私がこの城壁に来たのは父上の最後の思考を辿りたかったからだった」
自分でも可笑しかったのだろう、照れくさそうにレーニエは言った。
「ええ?」
「お亡くなりになった同じ場所に立って・・・同じものを見て・・・何かを感じたかった」
「お父上と・・・」
そう言えばレーニエの父、ブレスラウ公はこの城壁の上で射られ、墜落死したと聞いている。
「そう・・・下を見たい。ヨシュア、支えていて・・・」
そう言うとレーニエは矢狭間を一歩前に進んだ。
「気を付けて。急に真下をご覧にならないように・・・」
「大丈夫。あなたがいる」
「・・・しかし」
レーニエはまた一歩進んだ。足先に敷石はもうない。さっきファイザルが立ったのと同じギリギリの足場である。これで限界だった。
「・・・」
恐る恐るレーニエは下を覗き込む。恐ろしさで目が眩みそうだったが、腰にしっかりと回る逞しい腕を感じ、勇気を得てさらに目を開いた。
眼下に地面に向かって垂直に伸びる城壁があった。恐ろしい高さだ。
父の遺骸は美しかったという事だった。落ちてゆくブレスラウ公爵の体を受け止めたというナナカマドの木は既にない。代りに荒地に適したハイマツが城壁の一部を緑に染めている。後は
疎らに草が生えているだけの岩肌のごつごつした平原・・・。
――父上・・・私は来ました。あなたに会うために・・・愛する人と共に
――長らく私はあなたの事を忘失していた。だけど、もう忘れない。私はあなたの娘・・・どうかこの恋に祝福を
レーニエは瞳を閉じた。風がまともに顔に吹きつける。
―――――愛しい人・・・もう直きあなたに会える。戻ったらすぐに結婚を申し込もう。周り道など最早せぬ。誰にも後ろ指は指させない。我らの愛しい娘の為にも―――
―――――直ぐに、飛んで帰るから―――
刹那、世界が反転する
―――――俺のアンゼリカ・・・!
暖かい感情が心に沁み入る。眼を閉じたレーニエの体からくたりと力が抜けた。
「レーニエ様!」
直に力強い腕に引き寄せられ、頬が厚いものに触れる。頼もしい広い胸に
縋りながらレーニエは大きく息をついた。
「・・・ほら、大丈夫だったろう?以前のように気を失ったりしていない・・・」
「しかし、お顔が真っ青です・・・もう下りましょう」
「嫌・・・もう少しこのままで・・・・・・ヨシュア・・・しっかり抱いていて」
「・・・」
厚い胸に抱きこまれる。頬を寄せると規則正しい鼓動が響いてきた。
トクトクトク
――生きている・・・
レーニエはファイザル言わずに心に留めたあの時の想いを辿った。
正面に射手を見とめた時――
――あの時、あなたの心がもう私にないと思った時、死んでしまってもいいと一瞬考えた・・・確かにあの刹那、誘惑にかられて射手の前に身を晒して・・・
――ヨシュアが身を呈してくれなかったらあのまま死んでしまって、この人の苦しみも愛も知らぬままに終わってしまったかもしれなかったんだ
――生きている・・・生きているからこんなにも胸が苦しい・・・生きていてよかった・・・
「・・・」
レーニエは男の呼吸に自分のそれを重ね会わせた。乱れていた心臓の音が収まってくるのが分かる。
――ほら・・・鎮まった・・・あなたが傍にいてくれたから
ほっと肩を落とし、レーニエは顎を上げた。心配そうな青い瞳とぶつかる。
「父上と同じ景色を見た・・・その最後の想いが・・・私に・・・」
「・・・」
「ヨシュア・・・」
「はい」
「示唆を受けた・・・自分と同じ
轍は踏まぬよう・・・心から望むことに躊躇ってはいけないと」
「・・・その通りです」
レーニエは暫く彼の腕にもたれていたが、やがてゆっくりと白い顔を上げた。赤い瞳はこのような曇天の下でも、少ない陽の光を拾って不思議に揺らめく。
「そうだ。私はまだ言ってなかった」
「何をでしょう?」
顎がつんと上を向く。華奢な拳がファイザルの服の胸を掴む。つま先立ちになって必死で体を伸ばし、長身の男に少しでも近付こうとしている。
「あなたが好き・・・大好き。あなたが欲しいの。あなたでなければ嫌」
「・・・」
いつの間にか風が
凪いでいる。
なのに男にはまだ世界が揺れているように見えた。
――なんというお方・・・
――こんな方を俺は諦めようとしていたのか
無骨な掌が小さな顔を挟んだ。
見つめ合うと自然に唇が重なる。なぜ今までこのように触れあえなかったのか不思議なくらい、それは二人にとって自然な行為で。触れ合った部分からどんなにかお互いを求めているかが溢れるように伝わってくる。
「ん・・・あ・・・」
僅かに離れ、また重ねられる。それは優しく、激しく。長く離れざるを得なかった恋人達がお互いの存在を確認し合うための儀式だったのかもしれない。
「俺のレナ・・・あなたが愛しすぎてどうにかなりそうだ・・・。誰にも渡さない」
「そうして」
言葉の合間も惜しむように交わされる口づけこそ全て。
遠くの雲の切れ間から夏を告げる最初の光が下りてくる。重なり合った影は金色の縁取りに包まれながら微かに揺れた。
「帰ろう?ヨシュア・・・二人でノヴァの地に」
「お心のままに」
かくして恋人達は漸くそのいるべき場所をお互いの腕の中に見出したのであった。
◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇
お待たせしました(平伏)
