領主の選択

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  15  






甘やかな夢は、天蓋の紗を透かして降りそそぐ光によって破られた。窓の掛け布が半分ほど引かれていたらしい。

「ん・・・ヨシュア・・・」

ころんと寝返りを打ったレーニエに応える答えはなく、伸ばした腕は空を掻いてぱさりと落ちた。



覚醒はいきなり訪れた。

はっと上半身を起して隣を見ても、大きな寝台には一人きりで―――。

敷布に刻まれた波紋だけが昨夜の語り部だった。





――ヨシュア、そんな・・・!まさか、行ってしまった?私を置いて―――



あの腕の中で幸福に包まれて眠ったのはついさっきの事だと言うのに。

慌てて、掛布を剥いで寝台をまろび出る。レーニエは自分がきちんと寝間着を着ている事に気がついた。見慣れた寝室は明るく、斜めに射す秋の陽光で満ち溢れている。

部屋の中のあらゆるものが、美しく穏やかにあるべき姿をさらしているのに、そこにはファイザルがいた形跡は何もなく、もしやと思って隣室や浴室を見ても、同じことだった。まるで初めから全てレーニエの見た夢だったかのように。



全ては夕べ、サリアが部屋を出て行った時のまま―――いや、たった一つ―――



寝台の小卓に赤い酒の入った玻璃の瓶が置かれているのをが見えた。グラスは二つ。その一つに酒が注がれている。

「・・・!」

駆けよってみると、グラスには注がれた酒を半分だけ飲んだ後があった。それは全て干されることなく、赤い光の輪が卓の上で揺れている。

レーニエは本能でわかった。ファイザルは昨夜、最後まで自分を気づかい、彼女を純潔のままに留めたのだ。



――何故?



グラスをとるレーニエの指が震える。いつのまにかこぼれた涙の雫がグラスの中に(したた)った。



――何故、私を・・・ヨシュア・・・!



崩れ落ちそうになる膝を必死でとどめる。



「あ・・・ああ・・・」



熱く覆い被さる胸や、逞しく彼女を腕きとめた腕、何より彼女を狂おしく翻弄した唇や指の感触がまざまざと肌に残っているのに彼はいない。



込み上げる喪失感についにがくりと膝をつく。グラス中の酒が零れ、絨毯の上に染みを作った。



――嫌・・・こんな・・・こんなのは嫌だ。



(こら)えても嗚咽が漏れる。涙が幾筋も頬を伝って寝間着を濡らした。



――ヨシュア・・・!あなたは今日行ってしまうのに。どうして私に何も残していかなかったのだ・・・どうして・・・!



向こうの壁の大きな姿見に、這いつくばる惨めな自分が映っているのが見えた。置き去られて辛くて堪らないのに、鏡の中の自分は白い寝間着と髪が朝日に映え、滑稽なほど明るくみえる。



『素敵だ・・・』

昨夜のファイザルの言葉が蘇る。こんな自分を見て彼は確かにそう言ったのだ。レーニエは鏡に映り込んだ自分を見つめた。彼はどんな気持ちで自分を見つめ、そう言ったのだろうか・・・

レーニはゆっくり立ち上がると姿見の前に立った。

幼い頃から大嫌いだった髪、瞳、肌。この顔。

しかし、ファイザルは貴重なものでも扱うかのように、大きな手で肌を撫で、唇で愛撫した。そして何度も何度もきれいだと言ってくれた。自分を否定し、嫌いでいることは彼の言葉を信じないと言う事になる。愛していると、だからこそ何も誓えないと言った彼の言葉は、決してその場しのぎの偽りではなかった。



それならば―――



自分は何をするべきなのか―――



レーニエは鏡の中の自分に挑みかかるように、その場から動けなかった。












サリアがいつもの朝の支度を整えて、扉をノックする。

「おはようございます。失礼いたしま・・・・・・レーニエ様!何を・・・!?」

窓から差し込む秋の朝日を受けたレーニエが一糸まとわぬ姿で立っていた。両手を広げて厚い掛け布を握り、露台に向けて立っている。輪郭が陽に透けてこの上なく幻想的だが、サリアにはそのような事を楽しんでいるヒマはなかった。

「何をなさっていますの!今日は出立の式典があると言うのに!お風邪など召されたら・・・」

慌ててその辺に脱ぎ捨てられていたガウンを拾い上げ後ろから被せるが、レーニエの視線は尚も窓外に向けられていた。

「大丈夫だ。それより大急ぎで支度をして。湯を使う」

「お湯?今から入浴されるのでございますか?」

驚きながらもサリアは、レーニエの肌に視線を注ぐ。よく見なければ分からぬほどの淡い花びらのような痣が数箇所。それ以外はなにもないことに気が付いていた。寝台の敷布はやや乱れてはいるものの、いつもとさほど変わりがない。

ふん、そういうことか、とサリアは刹那に理解した。



――まぁね、そういうこともあるかとは思っていたけれども・・・あの方の事だから。だけど、レーニエ様は・・・レーニエ様は・・・わかっていらっしゃるのかしら?お辛くはないのかしら・・・?



「サリア」

考え込んではいても、こまめにレーニエにガウンを着せかけるサリアにレーニエは改まった声で呼びかける。その様子は落ち着き払っており、悲嘆にくれた様子はない。

ただ―――頬に涙を擦った痕跡が僅かに残っていた。

「は、はい!失礼いたしました。お熱は・・・ございませんね。なんでしょうか」

サリアは熱を見るふりをしてじっくりと主の顔を見つめたが、レーニエの瞳は既に乾いていて、赤い虹彩が朝日を受けて澄んだ光を宿している。

「うん。今日はファイザル殿の出立式だ。私もきちんとしなくては失礼にあたる。オリイに私の正装を出しておくように言って」

「は・・・?正装・・・で、ございますか?」

サリアは目を見張った。

「そう。母上から(たまわ)った私の『正装』だ」

光の中でレーニエは微笑んだ。








「おい・・・お前、俺になんか隠してないか?ファイザル准将閣下」

色づく荒野を一群の騎馬が行く。先頭はファイザルとオーフェンガルド。次いで彼らの従卒達。勿論ジャヌーも少し後ろからついてゆく。砦での儀式を終えたファイザルが今日、都へ出立するのだ。新しいノヴァゼムーリャ砦の指揮官となるオーフェンガルド少佐は、アルエの町まで見送ることにしていた。

そして、その前にこの地の領主から、軍功と昇進を言祝(ことほ)ぐ言葉を受ける。そのために一行は街道を領主館に向かっていた。正装した将校や、兵士たちの軍装は雄雄しく、金具はきらきらと陽に映え、街道で待ち受けていた村人たちは帽子を取って深々と礼をする。

「隠す?何を。それにまだ正式に辞令を受けたわけでもないから准将閣下はやめてくれ」

村人たちの挨拶に片手を挙げ、鷹揚(おうよう)に答えながらファイザルは答えた。

「辞令なんてただの形式だよ。膠着(こうちゃく)する戦況を前に、お前は最後の切り札ってわけだ。毎度毎度、芸のないことこの上ないがな。貴族階級の人材不足は今に始まったことではない」

自身も下級貴族のオーフェンガルドは皮肉な笑みを見せた。

「お前が言うな」

「まぁな。しかし、さっきの話だが・・・お前、あの人に・・・ご領主様になんか含むところが大分あるんじゃないのか?」

「・・・何故だ」

用心深くファイザルは尋ねた。

「この前の晩餐の席でも、お前達なんだか微妙な雰囲気だったし・・・」

「お前・・・あの人を知っているのか?」

「いいや、知らんね。いったいどういう出自の人なんだ・・・?ワルシュタールなんて名前の貴族は聞いたことがない。かと言って俺みたいな下級貴族でもなさそうだ・・・第一きれい過ぎる。まぁ、俺の家柄じゃ普通ならお目にかかれない雲の上の人だってことぐらいは想像つくけどな。お前は知っているのか?」

「さぁな。しかし、お前の言うとおりだったとしたら、たとえ俺にふくむ所があったって、お前同様、如何ともしがたいじゃないか」

「だから、何か隠していないかって聞いている。こういうときの俺のカンは外れないんだがな」

「なるほどな。しかし、まぁとりあえずその口を塞いでおくことだな。ほら、見えてきたぞ。あの方の前で無礼な言動は許さん」

美しく晴れ渡った荒野の向こうに城壁とはね橋が見える。一行は砦を出発してほんの半時も掛からずに、領主館に着いた。ここで、国境警備隊長ファイザルはこの地を治めるノヴァゼムーリャ領主に離任の報告をし、領主から餞の言葉をもらう。出立の式とはただそれだけの儀式だった。この後広場を通る際に村長達の挨拶も受ける予定だが、それには領主は参列しない。ここが彼等の別れの場だった。





「あ・・・」

はね橋を渡り終えたところで、ファイザルは言葉を失った。

真正面に見える領主館のファサードの扉の前、広い石の台上。いつもレーニエが彼を見送る十段程の階段の上にノヴァゼムーリャの領主が一人で立っていた。(ひさし)の外に出ているので遠くからでも銀髪が輝くのが見える。

「おい、あれは・・・誰だ?」

隣でオーフェンガルドも瞠目(どうもく)する。



秋の風が濃い色のマントとガウン、結わえていない長い髪を梳き流している。

領主の着ている衣装は、王族の直系たる人間にのみ許される意匠を縫いとった紫紺の長衣だった。それは男女の区別なく、式典の折などに身に着けられるもので、詰めた襟元と袖口に刺繍があるだけの簡素な造形ながら、技術の粋を極めた裁断と縫製で、それを着る人をこの上なく優雅にすらりと見せていた。

肩から背中を覆ったマントも同色で、緩やかに腰に巻きつけた剣帯に優美な細身の剣を帯びている。レーニエが帯刀している姿をファイザルは初めて見た。鞘にはやはり、王家の意匠が象嵌(ぞうがん)されていた。



「・・・・・・」

馬を下り、橋から続く石畳の上をファイザルはゆっくりと進んだ。

ジャヌー達、追随の者たちはその両側で敬礼をする。オーフェンガルドでさえ、階段のそばまでも行けずに途中で立ち止まり、腰を屈めて成り行きを見守った。

ファイザルは階段の手前で立ち止まり、胸に拳をあてて頭を下げる軍隊式の深礼をとった。

「わざわざのお出迎え痛み入ります・・・本日は出立の御挨拶にまかり越しました」

「・・・申せ」

整った眉はきりりと上がり、その下の赤い瞳は顔を上げた彼を静かに彼を見下ろす。凛とした立ち姿も清々しく。



昨夜、彼の腕の中で甘い吐息をついて眠っていた少女はどこにもいなかった。




「私、ヨシュア・セス・ファイザル、元老院議長、オリビエ・ドゥー・カーン閣下より准将としてエルファラン国軍、第5師団司令官を任ぜられました。直ちに同師団を率いるべしとの招聘を承り、これより師団駐屯地ウルフィオーレの地へ参ります。ご領主様にはこの一年の間、かくも至らぬ私に身に余るご厚情をいただき、このファイザル、感謝の極みでございます。厚く御礼申し上げまする」

ファイザルは錆びた声で(よど)みなく辞去の儀を述べる。

「・・・」

「これより私はこの地を去りますが、ご領主様にはいつまでもご健勝、ご盛栄であらせますよう、心よりお祈り申し上げます」

再びファイザルの頭が下げられる。

「・・・そうか。よくわかった」

どこにも感情の乱れの感じられない、静謐(せいひつ)な声。ファイザルがちらりと上げた視界の中に、きらりと光るものがあった。それは右手の中指に光る指輪。貴石ティユールカイトの金色の光が彼の眼を射る。それは彼女の母親から送られたものだとは記憶に新しい。



「・・・ファイザル指揮官殿。私からも、御身(おんみ)に申すことがある。顔を上げよ」

「は」

ファイザルの青い瞳と、レーニエの赤い瞳が真正面からぶつかる。少し離れたところで見守っているオーフェンガルドは、声は届かないながらも、この二人の間の空気が奇妙な緊張を孕んだことを感じた。

「私はよく考えてみた・・・」

ひた、とファイザルを見つめてレーニエは続ける。

「そして、真に理解した。私もあなたも運命等と言う不確かなものに囚われて明日を見誤っているという事を」

「・・・・・・」

「だが、私はわかった。自分が心から望むものがなんであるか」

「・・・レーニエ様?」

「私は・・・どうしてもあなたが欲しい。・・・ヨシュア」

静かな口調は変わらない。ただ、瞳の光が増した。

「!」

「何を利用しても・・・どんな事をしても、あなたを手に入れる」

紅玉の瞳が冴え冴えとした光を放った。微笑みさえ浮かべた美しい顔はいっそ、雄々しくさえ見える。

「ヨシュア・セス・ファイザル准将。御身は戦をよく知る武人だ。私がいくら望んでも、生きてこの地に戻るとは決して言わないだろう」

「レーニエ様・・・!あなたは・・・」

「ならば・・・私が誓おう」

レーニエは腰から剣を外し、水平に持ち上げる。

「あなたはこれを運命と言った・・・ならば」

「・・・・・・」

「運命など変えてみせる」

そう言い放つとレーニエは、剣の鞘をゆっくり半ばまで抜いた。真昼の陽を受け銀光が見つめる人々の眼を射たかと思うと、勢いをつけて鞘は(つば)に戻された。



キィーーーーーンーーー・・・・・・



その音は秋の澄んだ空気を裂いて響き渡る。

驚愕を瞳に滲ませながら、ファイザルは気圧されるように片膝をつく。しかし瞳はレーニエから逸らすことができない。

涼やかな音色の木霊が大気に溶けゆき、前庭にしじまが戻った時、レーニエは再び口を開いた。

「ヨシュア・セス・ファイザル准将、我が(まこと)の名において命じる。御身は必ず生きてこの地に戻れ。返答は求めぬ。これは我が一方的な命である」

「・・・・・・」

「准将・・・(うけたまわ)ったか?」

ファイザルは動けなかった。ひたと目の前の稀人(まれびと)を見据えたまま。

「・・・ヨシュア・・・?」

小首が傾げられる。一瞬のうちに凛々しい戦士はかき消え、昨夜抱きしめたたおやかな娘が立っていた。

彼は何かに突き動かされるように段を二歩で駆け上がった。愛しい姿を後ろに控える男たちから隠すように立ちはだかる。

「――(ひど)い方だ。あなたは・・・あなたと言う人は・・・男が言うべき言葉をすべて奪ってしまわれた・・・」

「・・・あなたが言えないのなら私が言うしかない・・・そう思って」

レーニエは顔を上げた。あなたを信じている―――その瞳はそう言っていた。







「レナ・・・俺の愛しいレナ・・・俺は戦いに行きます。俺は俺の戦場で」

「・・・私も・・・私に出来る戦いをする」

レーニエは凛々しく眉を上げた。泣いてはいなかった。

「ふ・・・まるで戦乙女のようなことをおっしゃる。これではまるで俺があなたに守られているようだ」

ファイザルは笑った。そしていきなり抱き寄せて口づける。背後から声にならない驚愕が伝わるが、もうそんな事はどうでもよかった。

「愛している」

「ヨシュア・・・」

「先の事は分からない。だが、どんな形でも必ず、もう一度お目にかかります。あなたに。・・・それにどうやら」

「うん?」

「俺にはし残したことができてしまったようだから。こんなに未練たらたらではどうしたって死ぬわけにいかなくなりました」

レーニエの頬がみるみる染まる。それを眺めて彼はにやりと笑った。

「ご壮健で、そしてくれぐれも無茶はしないでください」

「あなたも」

「承知――では!」

最後にもう一度口づけた後、ファイザルはさっと体を離した。マントを大きく翻して階段を降りると再び振り返り、最深礼をとった。それからカツンと踵を鳴らして転身すると大股で石畳を進んでゆく。






ひらりと馬上の人となったファイザルが真正面から領主を見つめた。オーフェンガルドが、ジャヌーが深々と頭を下げている。こっくりと頷き返してレーニエも頭を下げた。兵士達も次々に馬に乗った。



「進め!」

命令一過、完璧に統率された騎馬隊は粛々と進み始めた。次々にはね橋を渡ってゆく。次第に速度が上がり、街道に土埃が上がるのが庇の下からでも伺えた。



レーニエが見つめているのはただ一人の人の後姿―――



蹄の音が街道を遠ざかってゆく。



ひゅるり



この冬初めての木枯らしが広い前庭を通りぬける。銀色の髪が揺れた。





澄んだ空気に真珠のような涙を散らせて、ノヴァゼムーリャの領主は立ち尽くしていた。










◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇









これにて第一部終了です。
この項を推敲している時、自分自身も別離の季節を迎え、なかなかに気持ちが入ってしまいました。
恋人達の行く手にはもう暫く試練の時があるようです。第二部は新たな土地、人々、情景が繰り広げられると思います。ここまで読んで下さりどうもありがとうございました。どうかどうか最後までお付き合いくださいませ。





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