領主の選択

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その人は豪華だが寒々しい部屋に一人で立っていた。





今まで住んでいた召使達が住まう棟から、急に部屋を変わることになって幼いフェルディナンドは不安でならなかった。バタバタと荷物をまとめる両親は忙しそうであまり話をしてくれなかったし、七つも年の離れた姉は、仲の良かった同じ召使仲間の子供達とお別れをするのに忙しく、弟のことまで手が回らない様子で。

フェルディナンドと同じ年頃の男の子はここにはいなくて。だから彼は誰の邪魔にもならないように、一人で不安を抱えたまま、部屋の隅でじっとしていた。



フェルディナンドが物心ついた時には母親は、家族の住居と定められた部屋を空けることが多く、そのことについては一切口にしてはならないと父親からは厳しく言われたので、彼はどこの家もそんなものだろうと思っていた。しかし、今度は急に一家総出で、母親が働く王宮の奥の、更に一番奥で暮らすことになったと言う。幼いフェルにはそれがどういう意味か、まったくわからなかった。ただ、今は何も聞いてはならないことだけは何となく感じていた。

父親のセバストは元は兵士であったが、今は王宮で雑務を多くこなしている。彼は息子に「心配することはない」と笑いかけたが、敏感なフェルディナンドの心はそんな事では収まらなかった。それはたぶん父親もわかっていたのだろうと思う。





フェルディナンド・ジィン・シュヴェリーズは6歳になったばかりだった。





新たに住むことになった所は、今まで住んでいた召使住居の棟が、まったく見えないほど奥にあった。それは、手入れも行き届かないような広大な庭・・・と言うより、森の奥に、一つだけぽつんと独立した小さな屋敷で、美しいが古めかしい建物で、周りには他に何の施設もない。それが、少年の心を更に暗くした。一体ここで何が待っていると言うのだろう・・・・・・。

屋敷はさほど大きくはなかったが、一階部分のすべてをフェルディナンドの一家が使ってよいことになっており、それまで暮らしていた何部屋かが続いている構造の召使部屋とは大違いだったが、それを知っても彼はちっとも嬉しくなかった。

ここはあまりに寂しい場所で、エールリック一家の他には人間は誰も見かけない。



引っ越しが一段落ついて、それまで隣部屋の住人にあずけられていたフェルが引き取られ、初めてこの屋敷を見た時に感じた印象はこのようなものであった。





「さぁ、フェル。新しいご主人様にご挨拶するわよ。ついておいで」

自分にあてがわれた部屋(因みに自分の部屋を持つのは初めてで、フェルはこの点だけはちょっと嬉しかった)に、僅かばかりの荷物を置くが早いか、母親が後ろから声をかけた。引っ越しを手伝うためにフェルより早くこの家に来ていた姉のサリアは既に挨拶を済ませたらしく、意味深げにフェルディナンドを見つめている。

姉の奇妙な表情を見るにつけても、説明のできない不安に苛まされたが、フェルは文句を言わずに母親に従った。



――新しいご主人様・・・?



新しいと言ってもそれまで主人と言うものを持ったことのないフェルディナンドにとって、それがいったいどういう意味を持つのだろうか?フェルディナンドはよく分からなかったが、心がぴりぴりと緊張する事だけは強く意識できる。

奥にある薄暗い階段を上ってゆく。フェルディナンドは足が細かく震えることだけは自分でもどうしようもなかった。

彼は一番奥の扉を母親が開けるのを泣きそうな顔で見つめていた。ここに『ご主人様』がいると言う。控え目なノックの後、彼女は静かに扉を開けた。



「レーニエ様、末の息子がご挨拶に伺いました」

母親が振り向いてフェルディナンドに前に来るように促す。フェルは大きく膨らんだスカートの陰に隠れていた。



――レーニエさ・・・ま?誰だろう



「これが私の息子のフェルディナンドです。フェルとお呼びくださいませ」

「フェル・・・?」

細い声がフェルの耳に届いた。その声に驚く。新しいご主人様とは子どもなのか?

母親の影でフェルディナンドがぐずぐずしていると、やや強引にオリイが引っ張りだし、無理に部屋の中の人物と対面させた。



フェルが見たのはフェルよりも背が高い、しかしか細い子供の姿だった。母親のようなスカートではないが、床にとどくゆったりした黒い服を着て、一人で立っている。薄暗い室内を背景に、見たことがないような淡い色の髪が腰のあたりまで揺れている。顔は奇妙な仮面に半ば覆われていてよくわからなかったが、丸くくり抜かれた目の部分からは大きな赤い瞳が物珍しそうにフェルディナンドを見ていた。他に誰かがいる様子はなかった。

「フェルというの?オリイ」

自分の母親のことをこんな子供が平気で呼び捨てにしている。フェルディナンドはそのことにも驚いたが、母親が優しい目をして頷いたのも大変に面喰った。自分たち姉弟には厳しい母親だったからだ。

「左様でございます。6歳になります」

「こんなに小さい人間は初めて見た・・・」

その言葉を聞いてフェルディナンドはむっとした。この子どもだって自分とそんなに背丈が変わらない方じゃないか?これでも自分は同じ歳の子供より大きな方だったのだ。いきなりそれまで感じていた不安が吹っ飛ぶ。

「なんだい、自分だって子供じゃないか。あんたはいくつなんだよ!」

「フェルディナンド!」

とたんに母親の短いが厳しい声が飛ぶ。これは本気で怒るときの声だ。フェルはそう知っていた。ぶたれるかも知れないとフェルディナンドは体を固くした。

「私は12歳だ。お前は男の子?」

別段気を悪くした風でもない声にフェルは再び不思議な子ども向き合う。そう言えば、この子どもは男の子なんだろうか?裾の長い服は見慣れないものだが、女の子の服のような色ではない。おまけに変な黒い布が顔の半分を覆っている。フェルディナンドにはこの子が男女、一体どっちなのか分からなかった。

「そっ、そうだよ。あんたは?」

「・・・男の子」

その言葉にどういう訳か、母親がはっと顔を上げた。しかし、目の前の子どもの顔に浮かぶ表情を見て開けかけた口を閉じる。その様子を見てフェルディナンドは、今度は別にしかられるような事をしたわけではないとわかった。母親は様子を見るように一歩下がって子ども達を見つめている。

「ふぅん。だけど、なんでそんなへんてこなもの被っているの?」

母親の傍から一歩踏み出してフェルディナンドはさっきから気になっていたことを聞いてみた。

「へんてこ?それはどういう意味?」

「どういう意味って・・・変だってことだよ。知らないの?」

そんな言葉を聞き返されたことのないフェルディナンドは、不思議そうに目の前の子どもを見た。

「知らない・・・変なの?これ」

「変だよ。取れないの?前が見にくいだろう?」

「取れるけど・・・」

「じゃあ取ってよ。あんた俺のご主人様になるんだろ?顔を知らないと困るじゃないか」

「・・・取った方が『へんてこ』だったら嫌じゃない?」

子どもはフェルディナンドの言葉をマネながらも心配そうに聞いた。

「そんなの取ってみないと分からないじゃないか」

「そうか・・・」

子どもは手を頭の後ろにやって何かしている。きっと紐をほどいているんだなとフェルディナンドは思った。黒い布が緩んで顔から剥がれおちた。

「・・・これでいい?」

不安そうな声。しかし、フェルディナンドは答えられなかった。

前に王宮の大きな廊下を通らせてもらった時、壁に掲げられた大きな絵画の一つに天使達が描かれていたが、目の前の子どもは、その時に見た一番きれいな天使にそっくりだったから―――









北国の短い夏は駆け足で過ぎてゆく―――



娘たちはこぞって薄着になり、髪を下ろして荒地の花々が咲き乱れる荒野をさざめきながら駆けてゆく。夏は若者のためにある。あるものは恋をし、あるものは遠くの町に嫁いでゆく。

北の辺境、ノヴァの地にもそんな華やいだ季節が訪れ、広場ではこの夏、いくつのも結婚式が取り行われた。



沢山の歓声、祝福の拍手、舞い散る花びら、きらめく陽光―――





そうして気が付いた時には短い夏の盛りは過ぎ、季節はまた一つ歩を進めようとしている。

溢れるばかりだった陽の光はやや色が褪せ、果樹園の果物の実が大きくなりはじめていた。






「フェルディナンド!」

講義が終わり、後片付けをしはじめた少年達に後ろから声が掛けられる。

フェルディナンドが振り返ると、少年たちの学習の世話人の士官が講義室の出口で手招きしていた。こんなことは初めてだった。

「なんだろ?」

フェルディナンドはヒューイを見て首を傾げた。自分はなにかしでかしただろうか?心当たりは全くないが。

「さぁ、でも早く行った方がいいぞ。門のところで待っててやる」

「ああ、でも遅くなりそうなら先に帰っててくれ」

「わかった」

ヒューイは年下の友人を見送り、講義室を出てゆく。少年たちはこの二人を除いてこのセヴェレ砦に住んでいる見習いの兵士だから、門を出て帰るのはヒューイとフェルディナンドだけだ。大抵は15、6歳で、中には青年と言っても者もいる。



「なんでしょうか?」

フェルディナンドは階段型の教室を降りて、士官に尋ねた。

「ああ、呼び止めてすまんな。実は指揮官殿がお前を呼んでいるのだ。今すぐに執務室に行って欲しい。場所はわかるか?」

「ファイザル指揮官殿が?わかりました」

フェルディナンドには彼に呼ばれる理由が見当たらなかった。しかし、ここはまぁ従った方がいいだろうと思い、素直に応じておく。

「前に伺ったことがあるのでお部屋の場所はわかります。直にお伺いしてきます」

少年は礼儀正しく辞儀をし、(きびす)をかえした。



「失礼します」

ノックの音とともに扉が開けられる。そこにはフェルの知らない若い兵士がいてちょっと彼に笑いかけると、「フェルディナンドさんですね。伺っております」と重々しい扉をノックする。

「指揮官殿、領主館の少年が来られました」

領主に敬意を表しているのか、大人の兵士がフェルディナンドに向かって大変丁寧な態度で扉を開けてくれた。

「ああ、ご苦労。おまえは下がってよい」

「は」

フェルと入れ違いに兵士は一礼して出てゆく。彼が部屋を見ると中央の大きなデスクにファイザル指揮官が座っていて、何やら書類に目を通しているところだった。



彼が目を上げる。

森の中の湖のような瞳と、冬の空のような瞳がぶつかった。



「久しぶりだな、フェルディナンド。帰り際に呼び立ててすまない」

「ご無沙汰いたしております。何かご用でしょうか?」

フェルディナンドは挨拶もそこそこに、急な呼び出しの訳を尋ねた。堅苦しい真面目な表情は崩さない。そんな少年にファイザルは唇の端だけで笑い、手にした書類を脇にどかす。

「実は今度、都にある士官学校の予科生の募集があるのだが、君はどうかと思ってね」

ファイザルは顎の下で手を組んだ。

「俺が士官学校に?」

「そうだ。ここの新兵の教育担当者は君が、学問、剣術、体術ともに非常に優秀だと褒めていた。それでよければ君を推薦しようと思う。以前、ご領主様にも頼まれていた事でもあるし・・・」

「・・・」

「君は別に軍人にはなりたくないだろうが、とりあえずどこかの組織に属さないと、ここではこれ以上の教育は受けられない。予科は二年間だが、しばらくでも士官学校に入れば適性も分かるだろうし、他に進みたい道が出来たのなら、しかるべき教育機関に推薦もできる。もし君が高等教育を受けたいと思うならば・・・」

「教育は受けたいです。しかし、おっしゃる通り、どうしても軍人にはなりたいと言う訳ではありません」

フェルディナンドははっきりと答えた。軍人になれば命ぜられたとおりの部署に配属され、前線だろうが後方支援だろうが、命令には従わなければならない。下手をすれば、何年もレーニエの元を離れなくてはならない。フェルディナンドの究極の願いはその主を守ることだから、まったくの職業軍人になるつもりはなかった。

「そうか、そうだろうな。君の望みは・・・わかっているつもりだが・・・しかし、一度は広い世間を見ておくのもいいだろう」

「わかっています。・・・ご配慮痛み入ります。でも、返事は少し待ってもらえますか?士官学校に入ったら都で暮らさなくてはならないし、お屋敷にはなかなか戻れないでしょうし。とりあえず両親とご主人様に報告をさせてください」

二人とも心から愛しい人の名を敢えて口にしない。まるでそれが二人の間の不文律でもあるかのように。

「ああ、それは構わない。何ならヒューイにも声をかけてもいい」

「お気遣いありがとうございます。ではこれで失礼いたします」

フェルディナンドは堅苦しく礼を述べた。そして丁寧に辞儀をし、扉を開けて部屋を出て行こうとした時―――



「お健やかだろうか・・・」



――あの方は



辞去しかけたフェルディナンドを引きとめるかのように、声が掛けられた。フェルはわざとゆっくり振り返る。

そこには有能な指揮官の顔をした男はいなかった。



「・・・お元気です」

ファイザルの意図をフェルは明確に受け取った。

「この季節を外で過ごすのは初めでだとおっしゃって、いろいろなものを珍しがってあちこちを見て回られておられます。時には珍しい作物なんかを写生されたり。ですが、元々どちらかと言うと暑い季節は苦手な方なので、両親はことの他、お身体を心配してて。姉などは日焼けをされないか気にして、いつも帽子を持って追いかけています」

何でもない世間話のようにフェルディナンドは説明した。ファイザルの知らない館の日々は、自分にとっては何も珍しくない『日常』なのだと言外に含ませて。

「そうか・・・お元気か。それはよかった・・・」

「・・・失礼いたします」

少年は再び一礼して部屋を出て行った。





「・・・・・・・・・」

ファイザルは組んだ手の中に額を埋め、長い溜息をついた。



――いったい何をしているんだ、俺は・・・



フェルディナンドへの伝言など、教育係の士官に任せればいい事だった。

何故わざわざ自分が呼び立てられたか―――。そんなことぐらい、あの明敏な少年なら直に察したに違いない。

脇に置いた書類の束を再び手にとって、目を通す。

それはファラミア―――王都からの報告書であった。彼の地の町の様子、政治的な動き、南の戦場に新たに()く部隊の数。こまごまとした報告は重要なものであるはずなのに、文字面はちっとも頭に入ってこない。





この夏、若い領主と全く会えなかったわけではない。

それは村長宅の会食であったり、アダンの長男の結婚式であったり、夏至祭の舞台の貴賓席だったりした。

レーニエは、夏の日差しに肌を透かせながらそこにいた。

男物の地味な服装をしていても、青年達はおろか、娘たちまで憧れの眼差しを送る美姫。以前と違う所は前のように黒一色ではなく、白い服も着るようになったことだろうか?風に白銀の髪が透けるとおとぎ話の妖精のように見えた。何時でも、何処にいてもしなやかな立ち居振る舞いは生まれついてのもので、無意識に誰もが目で追ってしまう。

しかし、本人は相変わらず地道な努力を続け、近頃はすっかり村人たちの尊敬と信頼を受けるようになっている。ファイザルを見かけても涼やかに挨拶をし、淡い頬笑みを浮かべて辺り障りのない会話に応じた。少なくともファイザルにはそう見えた。



あの夏の始まり、朝の湖での出来事は夢だったのではないか―――

そう思ってしまうほどに。

あの時、彼の腕の中で明らかに女の顔をしてレーニエは震えていた。半開きの唇がわななき、見開かれた赤い瞳から透明な雫が溢れ、頬を伝って彼の指を濡らしたのは―――



――羽のような体の軽さまでこの腕が覚えている・・・・・・



ファイザルは(まぶた)を伏せた。無意識に差し出した腕は力なく下ろされ、拳が堅く握り込まれる。

全て自分の意図したように事は落ち着いているのに、この空虚な感覚は何なのだろう。

窓の外にはようやく黄昏が訪れようとしていた。窓外にはのどかで平和な美しい風景が広がる。しかし、ファイザルの目にはそれらは映らない。



――俺は大馬鹿野郎だ!



彼は諦めて、ちっとも頭に入らない報告書をばさりと投げだした。久しぶりに午後の訓練の監督でもしようと傍らの愛剣を取ると、上着を脱いで乱暴に席を立った。肉体を苛めぬけば、ろくでもない思いを持て余すことはないだろう。今までもそうやって数々の苦しみや悲しみを葬り去ってきた自分なのだから。



彼はぎりりと柄を握り締めた。





◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇





フェルディナンドとレーニエの出会いを織り交ぜてみました。
そして、やるせない思いを持て余すファイザル。え?自業自得・・・?
兄さんに愛の励ましを!

*作者注*
4章で明らかになったレーニエの出生の時間軸を、今回少し書きなおしました。僅かな違いですが、後々重要になると思いますので。


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