夏はゆっくりと終わりに差し掛かろうとしている。もう直ぐしたら夜には火を焚かなくてはいけなくなるだろう。だが、今夜はまだ暖かい。領主館の居間の窓はさやさやと流れる黒い梢を映していた。
「今日は愉快でしたねぇ」
あの後、休息を取ってから一同は村の目抜き通りで催された後夜祭に招かれた。セルバローは至る所から声を掛けられてその全てに愛想良く応じ、ファイザルは故郷の誉れよ英雄よと賛辞を浴びた。レーニエは大道芸の催し物を見たり、屋台で食事をしたり(生まれて初めてだった)して楽しんだ。そして、その日初めて皆の前にお披露目された二人の子ども達は、訳が分からないままに興奮しながら祭りを眺めている。レーニエは全ての村人から心からの祝福を受け、この瞬間の全てを幸せに感じて夫の腕に寄り添っていた。
そしてアンゼリカは少し遅れて歩きながら、その全てを見守っていたのだ。
「ええ本当に、まったく愉快でした。こんなに笑ったのは久しぶりです。母上にはお疲れではありませんか?」
「すこしだけ。・・・でも村の人たちもお前によく懐いているようでした。立派な領主です。母として良い思いをしましたよ」
「そう言っていただけると嬉しいです。これもヨシュアとジャックジーンのお陰です」
「俺は何にもしていませんが」
窓辺に立ってまだ明るい村の方を見ていたファイザルが振り返って笑う。ジャックジーンの方はまだまだ騒ぎ足りぬと見えて村の宴会から戻ってきておらぬ。あの男の常で、僅かな間にノヴァの地にすっかり馴染んでしまったのである。
「子ども達も少し疲れたようですね。よく眠っている、今日は遅くまで大騒ぎだったですから」
アンゼリカは脇の揺り籠を揺らしながら言った。双子達は朝から興奮のし通しで、余り眠れていなかった為、館に帰ってからしばらく二人して泣いていたが、それでも寝台に横たえて歌を歌ってやるととあっという間に眠ってしまった。
「ええ、私も少し疲れまし・・・いいえ、大丈夫です」
自分が疲れたと聞いた途端眉を顰めた夫を見て、慌ててレーニエは両手を振って訂正する。場合によっては無理やり寝室に連れていかれそうだ。まだ寝かせられたくはない。それほど今日は楽しかったのだ。
「ふふふ・・・それでね、レーニエや?双子の事で折り入ってお話があるんですけれどもね。婿殿も聞いてくれますか」
「何でしょうか?」
ファイザルも前の椅子に腰を下ろし、居住まいを正した。
「ええ、うん・・・突然ですがレーニエや?子ども達に王位継承権を欲しくはありませぬか?」
「!」
予想だにしなかった問いに二人は瞠目して、国王たる人物を見た。彼らの反応を見越していたのか、ソリル二世、アンゼリカは口角を上げるだけの微笑を返す。
「はい、そんな話なのです。・・・知っての通り、そなたの王位継承権はそなた自身の望みによって、そしてこの母の手向けとしてそなたを自由にする為に返還された。ですが、あなたの子ども達についてはそうではない」
「え?どうしてですか?私に王位継承権が無いならこの子たちにも無いのでは?」
何処までも静かな母の態度に気押されるように、レーニエは必死で己を立て直して問うた。ファイザルは既にいつもの冷静な面持ちに戻って母子を注視している。
「あなたのお尋ねはごもっとも。私もうっかりそう思い込んでいたのですが、元老院のオリヴィエが、ふとそんな事を言い出したのです。それでね、調べてみましたが、この様な事例は過去にも無くてね。王室史の専門家やら、古参の祐筆達に尋ねてみたのですが、皆一様に知らないと言う。オリヴィエが申す事には、現在王家直系の者は随分少なくなっていて、片手に余ると言うあり様。よもやとは思うが万が一の事も無いとは言えない。前例が無いとは言え、レストワルドとエルフィールが私の血を引く子達なのは確かなのですから、オリヴィエ等は王室典範に追加事項と言う事で議会にかけてもいいと言うのです。・・・で、そなたさえよければ・・・」
「要りませぬ」
即座にレーニエは言い放った。横でファイザルがくっと笑いを噛み殺す。アンゼリカは首を竦めた。
「そうあっさり断るでない。少しは話を聞いて・・・」
「だって要らないのです」
普段温和で大人しい娘が頑固に言い張る。珍しいことだ。ファイザルは思わず女王に助け船をだした。
「レナ・・・ま、そう言わないで、も少し考える振りでもすれば・・・」
「要らない」
折角の夫の言葉にもレーニエはプイと横を向いてしまう。どうやら怒っているようだ。ファイザルはやれやれと肩を落とした。
「陛下・・・済みませぬ。しかし、私も疑問に思います。陛下の後継はルザラン殿下のご長男、アーベル様では?確かもう15・6歳になられる立派な男子とか」
そういや、自分の従卒と同じ名前だったなと思い出しながら、ファイザルは怒っているレーニエも可愛いなと目尻を下げた。これではどうしようもない、アンゼリカはこれ以上婿からの援護射撃は期待できないと小さな溜息をついた。
「そうです。なかなか利発な子で、文武両道と元老院の年寄りからの評判も割合いいですよ」
「なら、次期国王はアーベル殿で決まりです!素晴らしい」
この話はこれで終わりだと言わんばかりにレーニエはさばさばと言った。アンゼリカはもう苦笑するしかない。
「つれない子ですねぇ・・・」
「それにしても、陛下。俺の様なものがこんな事を言うのは筋違いなのは承知しておりますが、後継がもう決まっているのなら、これ以上継承権を持つものが増えるのは宜しくないのでは?」
「まぁそう言う向きもありますが、これが意外な事に王家の熾烈な跡目争い等、ありそうで実はそうあるものではないのです。後継はアーベルで決まりですし。アーベルに何かあれば、妹のラーラに養子でも迎えればよい。ただ私はこの子らが成人した折に、選べる機会を与えてもいいかと考えただけで・・・継承権だけなら別に持っているだけで、王座を継ぐとは限りませんし。まぁこう言っては何だけど、ある程度の財も分けてやれる。これは我が弟のルザランも承知しておるのです」
「・・・そうでしたか。しかし、母上の気持ちはありがたいのですが、形だけの王位継承権などなくともこの子達ならしっかりやっていきます。継承権も財も、あるだけで様々な桎梏が纏わりつくもの。そんな不自由な思いを子ども達にはして欲しくありません」
「レーニエ・・・」
「あ・・・済みませぬ、生まれながらに世継ぎと定められた生き方を歩まれた母上を前にして言う言葉ではありませんでした・・・心至らず、申し訳ありませぬ」
「それはいいのですが・・・」
項垂れてしまった娘の銀の頭をアンゼリカは優しく引き寄せた。
「あなたはこの血のせいでさんざん苦労したのですからね」
「そうではなく・・・いえ、やはりそう意味かもしれませぬ・・・王家の血とは、背負うものによっては厳しいだけの主人となるのです」
「・・・・・・そうですね」
「レナ。俺などが口出しすべきではないが、ここは義母上の言うとおりにしたらどうかな?」
「ヨシュア!」
何を言うの、と紅い目が見開かれた。
「まぁお聞き。確かに王位継承権を持つ等とは尋常でない状況だ。争いごとの種になるなら困るが、だがそれは母上や摂政殿下が避けて下さるのだろう。だが確かに王室の置かれた危うい状況も分かる。なら、形だけでもそうしておいて、この子達が自分で判断できる年になったらそこで考えさせたらいい。まぁ王座を望むような教育を陛下も強いたりはなさらないだろうし。まだ何も分からない内から、決めつけはよくない。俺が言うべき事ではないが我が国の王族はかなり大らかな人達だから」
レーニエを含めてとは流石に言えなかったが。
「おお、婿殿。流石に年季の入ったご意見です」
「(それは褒められているんですかね?)レナ・・・あなたの気持ちも分かるが・・・どうだろう?」
「う・・・私はただ、子ども達があなたのように大らかで優しい子になってくれればそれで・・・」
「さ、それも先の話だ(俺が大らかだって思っているのかこの子は)。陛下、俺は一番欲しいものを得てしまったから、名誉も財も既に意味がありませぬ。子ども達のことは無論愛しているが、自覚のできる年齢に達したら後は自分で人生を切り開いていけばいいと思っている。その時に彼等が何を考えるかまでは分からない。ただ選択肢は多い方がいいとは思う。だが陛下、単純な疑問ですが、王室も元老院方がたも、こんな親の顔も知らない俺の血が混じった子ども達でも王家に名を連ねてもいいのですか?いや、俺は自分の生まれを別に恥じている訳ではないが・・・世間的に見れば所詮俺などはただの平民だ」
「恥じる理由はありませぬ。あなたは思慮深くて勇敢な大層立派な殿方ですからね。・・・ですが、レーニエ、あなたがお決め?」
「・・・少し考えさせていただいてもよいですか?」
レーエは考え込みながら慎重に答えた。
「かまいませんよ。よくお考えになるといい。あなたの出した結論ならこの母は受け入れますからね」
「は・・・感謝いたします」
「そして次に都に来られる時には父上のお身内のご挨拶を受けるが良い。これもそなたを公式に認めた時からブレスラウ公家から目通りの願いがあったが、その折はそなたもまだ王宮に慣れておらなんだ故、時が来るまで待ってもろうておったのです。次の春はバルバラ殿が体調を崩され、その後はそなたが身籠ったので、結局延び延びになってしまいましたが」
「お父上の・・・たしか、直ぐ下のバルバラ叔母上が公家を継いでおられるとか」
「ええ。バルバラ殿は政治にも権力にも全く野心が無く、領地の管理に心血を注いでおられる。未だ独身でね。けれど、直ぐ下の妹御のカミーラ殿の末の息子を養子に貰いたいと、この程願いの儀が出された」
「ファーデリアン侯爵家の末息子ですか!」
「おや婿殿良く御存じですね」
「いや・・・俺よりレーニエ様の方がよく知っておられると」
「ええ?何故?」「私が?」
親子で同じ表情でびっくりしている。
「何を言ってるんですか?二年くらい前に士官学校で会ったでしょ」
「学校!?・・・あ!グザビエとか言う子!」
「ええ、確かそんな名前でしたよ。レーニエ、そなた知っているのですか?」
「えとあのその・・・フェルの学友の一人なのです。以前学校を参観に行った時に少し話を・・・」
まさか取っ組み合いの大喧嘩をしたとは言えずレーニエは口籠った。
「ああ、そうなのですか!」
「挨拶・・・するのですか?」
「そうですよ、そのぐらいは公家と侯爵家の面目を立てて、お受けなさいね?今まですれ違いになってしまっていたのですから。特にバルバラ殿レスターの事を大層慕っておいでだったから、あなたにも思い入れがあるのでしょう」
「はい・・・」
「くく」
ファイザルはレーニエが居心地悪そうにしているので可笑しくなった。かつてグザビエがフェルディナンドを馬鹿にした事に対し、怒ったレーニエが、本気でぶん殴ったのである。あの時の高慢で細っこい少年は少しは逞しくなったのだろうか?フェルディナンドに聞けば分かるかもしれない。二人の対面はどんな風になるのだろう。これはいくら貴族社会に無関心なファイザルと言えども少しは見てみたいと言う気になった。
「それにしてもあなたも色々考えておいでなのですねぇ。普段割合ぼんやりしているように見えるのですけれども」
「ぼんやりなどしておりませぬ」
遠慮呵責のない母の言葉にレーニエはむっとして言い返した。
「おお、これは失礼。そうでしたね、頑張ったのはノヴァゼムーリャへ赴くと決めた時、講和の大使となると願い出た時。あなたは折りに触れてしっかりした行動力を見せる事があるようです。ねぇ婿殿?」
「左様で」
実はそれだけではないんですが、といろいろ訴えたいのをファイザルはなんとか堪えた。レーニエは夫が同意してくれたので単純に嬉しそうである。
「そうですとも。これでも色々と考えております」
「そうですわよねぇ。考えてみたら、あのお父上の子なのですから・・・この子たちもきっとそうなのでしょう。楽しみです」
アンゼリカはすやすやと眠る赤子たちをうっとりと眺めた。二人はぷくぷくとした頬を寄せ合って夢の世界である。
「ふ・・・なんて可愛い寝顔なんでしょう・・・でも、いつかはこの子たちも自分の行く末について、もの思う日が来るんでしょうね」
「それが世の常でしょう・・・考える余地があるだけ、幸せだと言えます」
ファイザルも我が子の寝顔を見つめながら感慨深げに呟く。
「そうですね、私も婿殿もそもそも生まれた時から、言わば前線暮らしでしたものねぇ」
「御意」
「それにしても、もうじき休暇も終わりますが、この地に来させていただいて本当によかった。この子は本当に幸せそうに生き生きとしています。これも婿殿のお陰かしらね?・・・ねぇ娘や?・・・あれま」
静かにしていると思ったら長椅子の背に長い髪を乱れさせてレーニエはくうくうと眠っていた。ついさっきまでしゃんとしていたのに、赤ん坊と一緒で今日は一日興奮し通しだったのだろう。
「おやおや、こちらも可愛い顔をして・・・こうしてみると、この子こそまだまだ幼い様な気がしますね。何しろ世に出たのがたったの4年前ですからね」
「ええ。確かにぱっと見にはまだ無垢で可愛い・・・ですがこの方も立派な大人です。この俺を必死にならせる程に」
愛しくてならぬように寝顔に微笑を向け、ファイザルはレーニエの上に屈みこんだ。乱れた前髪をそっと整えてやる。
「一人前の女です」
「ふふふ、まだまだ苦労しそうですね」
「望むところですが・・・さ、寝台にお連れしよう。・・・義母上、少し失礼いたします。子ども達には直ぐに乳母を寄こします」
ファイザルは起こさぬようにレーニエを抱き上げた。逞しい腕に抱えられて安心したのか白桃の頬に笑みが浮かぶ。
「婿殿もお疲れであろうに仲のよろしい事。この子達を寝かしつけたら戻ってこられよ。良い酒を用意して待っている程に」
「楽しみにしております」
あくる朝、フェルディナンドが眼を覚ました時には既に陽は高く昇っていた。
「しまった!」
滅多に寝過ごす事のない律儀な少年は、慌てて髪を整え服を着る。昨夜はレーニエ達と少し後夜祭を見て回ったフェルディナンドであるが、流石に疲れて早々に館に引き上げ、元の彼の部屋で泥のように眠ってしまったのであった。
「あら、フェル起きたの?」
「姉さん!何で起こしてくれなかったんだ!」
フェルディナンドは顔を覗かせたサリアに文句を言った。
「だって、ファイザル様もセルバロー様も今日は用もないし、寝かせておけっておっしゃるんだもん。お二人は朝早くから仲良く馬責めに行かれたけど。馬責めよ?昨日の今日でまったく底なしの体力よね?」
「・・・レーニエ様は?」
「昨日は余程お疲れになったのか、さっきまでお休みだったの。漸く今しがた起き出されてお湯を使われたところ。そろそろあんたもお顔を見に行ったら?」
「いいの?」
「勿論いいわよ。朝食を運んでくれる?」
「ああ、わかった。陛下は?」
「陛下もまだお部屋でゆっくりされていると思う。起きるのは早くってお庭を散歩されてたけど、それからはお部屋でなんだかお手紙を書いておられたようよ?」
「そうか・・・じゃあ、行ってくる!」
「あんたのご飯は?」
「要らない」
そう言うとフェルディナンドは厨房へ走っていった。
「はぁ・・・あんたもよくせきゆっくりできないタチねぇ・・・まぁ分かるんだけども。ま、お姉さまが気を利かせておいたからね」
サリアはくすりと笑うと弟の乱れた寝台を整えた。
「レーニエ様、失礼します・・・」
「ああ、フェル・・・ちょっと待ってね?」
フェルディナンドが朝食を乗せた台車を押して居間に入って来ると、扉の正面に置かれた衝立から主の声が掛かった。レーニエは朝の支度を済ませたと言うし、普段はこのようなものは置かれていないので、彼はなんだろうと思ったが、とりあえず足を留める。
「今お乳をやっているところだから・・・」
「あっ!失礼をっ」
「いいの。もう済んだから。入ってと言ったのは私なんだし。ん、いいかな?ニーナ、エルをお願い」
「はい」
衝立の向こうから乳母のニーナがエルフィールを抱いて出てくると、にこやかにフェルに挨拶して窓際に置かれた揺り籠に赤ん坊を横たえた。傍らにはレストワルドも起きていてうみゃうみゃとエルに話しかけている。
「ああ、フェルごめんね?お待たせ」
そう言いながら衣服を整えたレーニエも顔を出した。ニーナが衝立を壁際に除ける。今朝のレーニエはゆったりした前合わせの白い部屋着の上に薄桃色のガウンを重ねて、結わぬ銀髪を垂らしている。フェルディナンドは思わず息を引いた。昔の憂いを輝きに変え、愛し愛されて生まれ変わったかのように彼の主人はうつくしい。
「今朝は随分ぐっすり寝てしまって、朝起きたら胸が痛くて・・・お乳を先にやってしまったの」
「・・・」
少年はレーニエのあからさまな言葉に思わず顔を赤らめた。これを素でやっているからこの人は恐ろしいのだ。
「どうしたの?ねぇ、そんな壁際に立ってないでこっちへ。一緒に朝ごはん食べよう・・・まだなんでしょ?」
「いえ・・・私は」
視線を泳がせながら少年は口籠った。
「駄目。知ってるよ?さっきまで寝てたのでしょ?サリアに聞いたよ。無理もない。昨日はあんなに頑張ったのだから。いいから私と朝ごはんを食べなさい」
「ですが・・・」
「嫌なの?」
「え」
「フェルは立派になったから私と朝ごはんを食べるのは嫌なの?昔はよく一緒に食べたのに」
「そっ、そんなことは!・・・はい・・・ではご一緒させていただきます」
紅玉の瞳が曇るのに耐えきれず、フェルディナンドは仕方なく同意する羽目になった。昔一緒に食事を取った事があると言ってもかなり昔の話だ。セバストもオリイもけじめと言う事については厳しかったからだ。しかしこうなっては少年に断る術はない。サリアの配慮でたっぷりと用意された朝食をフェルディナンドは手際よく配膳していく。焼き立ての軽パンは数種類あって籠に盛られ、それに添えるバターとクリーム、様々な色合いのジャムは玻璃の壜に入れられ、陽に透けて大変きれいである。いり卵には燻製の肉が添えられ、温野菜に果物。それは豊かで滋養のある朝の食事であった。
「ああ、美味しそうだ。ねぇ、お乳をやるとお腹が空くんだよ?知ってた」
レーニエは好物の梨のジャムをたっぷりとパンに塗りつけ、あむと口を開けて頬張った。そう言えば以前は食事になど全く興味を持たなかった主を思い出し、フェルディナンドは嬉しそうに食べているレーニエを珍しそうに見る。
「いいえ、存じませんでした」
「私も母になるまでは知らなかった。でも色々学んだんだよ?多くは子ども達からなのだけれど」
「すっかり、お母上になられたのですね」
「すっかりおかあさんだよ」
今度は丸く括り抜いて果汁に浸した果物を口に運びながらレーニエは自慢する。こんなに食べる主人を見るのは本当に初めてで、フェルディナンドはすっかり驚いてしまった。しかし、満足そうに朝食を平らげてゆく様子を見守っている内に彼自身も嬉しくなり、どんどん食が進む。
「姉さんの焼くお菓子は今でも美味しいですか?」
「美味しい、美味しい。今では料理をするのはサリアの役ではないけれど、お菓子を作るのは譲れないと言ってお茶の時間には作ってくれるよ」
「そうですか。ここではゆったり時間が流れるのですね」
「まぁ大体ね。この冬は結構色々あったけど。そうだ、フェル、フェルはお魚を好きかい?」
「オサカナ、魚ですか?食べるのですか?」
「そう。もう直ぐしたら東の街道を整備しようと言う計画があってね・・・それが成ったらお隣の州との交流も盛んになって、彼の地の特産品のお魚が一杯入って来ると思うんだ。新鮮なのがね。そして夏になったら海水浴とか魚釣りができるかもしれないんだって」
「海水浴!海で泳ぐんですか?」
「そういうものなのだろう?私はした事が無いけれど」
「いけませんよ!日に焼けてしまう」
「うわ、ヨシュアとサリアとオリイと・・・お前まで・・・皆同じことを言う。なら魚釣りを・・・」
「それもだめです!岩場で転んでしまいます」
「もう!それも同じことだってば!聞き飽きた」
「レーニエ様・・・」
ぷぅとむくれたレーニエと、表情豊かな女主人とまともに目が合ったフェルディナンドは暫くお互いを見つめていたが、弾かれたように二人同時に笑いだした。
「あはははは!もう!」
「ははははは!」
若々しい笑い声に驚いて乳母達が次の間からちょっと顔を出したが、同じく微笑んでそっと引っ込む。そしてもう一方から・・・・・・
「うきゃあ、きゃっきゃっ」
「ふにゃにゃにゃ」
傍らの揺り籠から可愛らしい声が上がった。
「わ!笑った」
「え?普通は笑わないんですか?」
「いや何となく笑う事はあったけど、・・・こんなにはっきり声を上げて笑ったのは初めて!お前達、楽しかったんだね!」
レーニエが跳ねるように揺り籠に屈みこむ。つられてフェルディナンドも立ち上がり、後ろから揺り籠の中を覗いた。
「・・・・・・」
「ね?笑ってる。フェルを見て笑ってるよ、気に入ったんだ」
「・・・はい」
双子達の会うのは、彼が領主館に戻って来て最初の日に双子達を見て以来のことだ。その時もあまりゆっくりとは相手をしていない。その後も何かと理由を取って付けて、レーニエの子ども達に合うのを極力避けていたような気がする。
それは多分、レーニエとファイザルの愛の結晶たる子ども達を見るのを心の深部で辛いと思っていたのだろう。レーニエと少し距離を置いていたように。自分はまだやはり子供だったのだ。あんなにか弱く、自分が守らなければと思いつめていた主人がいつの間にか、こんなに豊かで健やかな母性を持った大人になっているのに、自分だけが小さく凝り固まろうとしていた。そしてそれを絶対に認めまいと、頑迷に前しか見ていなかったのだ
――あ~あ、もう何もかも全部叶わないや・・・
ふ、とフェルディナンドは笑った。
「ん?可愛いでしょ」
「ええ、本当になんて・・・」
――なんて可愛いんだろう・・・
「ほらエルがじっとお前を見てる」
「こちらがエルフィール様ですね」
「そう・・・抱いてみる?」
「え!?」
「ほらエルが抱っこを強請ってる。大丈夫、もう首もしっかりしてきたし、目も見えてるんだよ。・・・よっと・・・ほら」
「・・・わ!」
フェルディナンドはおっかなびっくり赤ん坊を受け取った。生れて初めて抱く赤子の、何と小さく軽く、そして暖かいものか。
「・・・ほら、大丈夫だろう?エルや?この子はフェルディナンド。私の弟だよ?だけどご立派な殿方だ。ステキだろう?」
「ぅわきゅ」
「あ、挨拶してるよ?フェル」
「・・・」
レーニエに殿方とか素敵だとか言われ、フェルディナンドはすっかり驚いてしまった。女主からそのように言われたのは初めてだった。
「フェル?」
「・・・いい匂いがします」
腕に感じる重みはささやかだけれど、その愛おしさに圧倒される。この世で最も弱いものの、とてつもない力。ファイザルも始めて子どもを抱いた時にこのように感じたに違いない。フェルディナンドはそっと頬を寄せて囁いた。
「エル・・・?」
「そう、そう呼んで」
「エル」
「みゅ?」
「ああ、可愛い」
思わずエルフィール頬ずりしたフェルディナンドをレーニエは嬉しそうに眺めていた。やがて赤ん坊をレーニエに腕に帰すと、若い母はそっと揺らしながら揺り籠に戻してやる。
「ありがとう、フェル。やっとフェルに抱いて貰えた」
「・・・申し訳ありません。ずっと・・・私は・・・」
「いいんだ。皆にフェルの邪魔をしてはいけないと言われていたから。でも、本当はちょっと寂しかった・・・だけど、これで満足なの」
「レーニエ様」
「ん?」
「俺・・・以前申し上げたわたしの誓いは今も変わってはおりません。これからも私の主人はレーニエ様です・・そして今はお子方も加わりましたけど。たとえ離れていても、ずっとです。ずっとお仕えいたします」
「フェル・・・フェルディナンド」
「お誓いいたします。今ここに剣はありませんけれど」
「フェル、立って」
「・・・」
ゆっくりと少年は身を起こした。
「私のフェル・・・フェルディナンド・・・愛しているよ」
「私もです」
「うん。どうか、気のすむま自由に羽ばたいておいで。私はここでお前を待っている。だから時々戻って来て話を聞かせて」
レーニエはすいと顎を上げると、すっかり線の厳しくなった少年の頬に両手を添え、ごく自然に顔を近づけたフェルディナンドの唇の端に接吻をする。何年ぶりになるだろうか?
「一杯お土産をもって・・・ね?」
「勿論です・・・というか、お子方優先で」
「え?そんな」
「んま?」
「あ、エル様もそうだって」
丁度いい頃合いで合いの手を入れたエルフィールとフェルディナンドの目がしっかり合った。
「エル、こら・・・欲張りん坊!ふ・・・あははは」
「ははは」
「まう~~~」
負けじとレスターも大きな声を上げた。
「あ~~~~腹減った!お!いい匂い!朝早くから結構激しく動いたからなぁ。腹ペコだ」
「まったくです。馬責めの後に剣の相手までさせられるこっちの身にもなって下さいよ~」
「おい、お前たち少しは遠慮しろ!朝たらふく食ったろ!この居間は貴様の食堂ではないんだぞ!」
「まぁまぁ・・・でも丁度いいではありませんか?ちょうど食事中だったみたいですし。さぁさ、早速頂きましょ」
賑やかに入って来た四人の名はもう言わずとも分かるだろう。朝食にしては遅すぎるが、昼食にしてはやや早めの卓にわらわらと席を寄せる。
「もう・・・子ども達がびっくりして笑いやめてしまったではないですか。せっかくエルが初めて声に出して笑ったのに」
「え?本当ですか?レスターは?」
ファイザルは急いで揺り籠に駆け寄る。その姿は昨日激しい戦いを見せた戦士ではなく、ただの子煩悩な父親である。
「レスターも笑ってたよ」
「残念!見たかった」
「ふふ・・・皆が楽しそうにしていれば又きっと笑ってくれるよね?」
レーニエは嬉しそうに
「おおっ!追加が来たよ!早速昼御飯だ。美味しそうだなぁ」
サリアと村娘達がほかほかの食事を捧げてやって来る。セルバローは蕩けそうな微笑みを彼女達ではなく、料理に向けた。
「お前は食い気しかないのか・・・」
「俺が色気を発散したら困るのはお前だよ?」
「ちっとも困らん。レナには俺だけだ」
「うっわ~~~~。こいつ誰デスカ?」
早速パンに挟んだ燻製肉を口に放り込みながら、セルバローは大げさに顔を顰めてレーニエを振り向いた。
「ふふふ・・・でも、そうだよ?ジャックジーンの魅力は知っているけれど」
「そうですわよねぇ」
「ねぇ」
アンゼりカとサリアも笑って同意する。
「うわ、俺の魅力に参らない女の子が三人もいる!自信無くすなぁ・・・」
「一生無くしていろ!」
「・・・」
フェルディナンドは席に戻りながら楽しそうな皆の会話に耳を傾けていた。ここにいるのは人生の艱難辛苦をやり過ごしてきた経験豊かな大人達なのだ。自分のような子どもはせいぜい先人の言葉に耳を傾けて、その中から己の生き様を模索していかなくてはならない。それは傍らで笑うまだ無垢で無力な双子達も同じことなのだ。
――さぁて、やる事が一杯だな。でも、先ずは・・・
「あっ!閣下!それは俺の分のパンです。ほら、バターが塗ってあるでしょ」
「あ、済まん」
「ヨシュアには私の分をあげるから・・・はい」
「む・・・美味い」
「ふふふ・・・いいですねぇ。ああ、よかった、本当にここに来た甲斐がありました。これで私も安心して王都に帰れますよ」
さばさばたとした調子でアンゼリカがパンパンと手を打ち、彼女の娘と義息がえっと彼女を見た。フェルディナンドもはっと目を見張り、一人セルバローだけがうんうんと頷いている。
「母上?」「陛下?」
「ま、潮時でしょうなぁ」
「これ、そのように意地悪を申すでない、セルバロー殿。ええ、帰りますよ、オリヴィエもルザランも早く帰れと矢の催促ですからね。業腹ですけれどそろそろ戻ってやらないと。三日後に発ちます」
「そんなに急に・・・」
「おや、寂しいですか?」
来るのも急だったが帰るのも急だ。レーニエはまだこの母に付いていけない。おろおろとしている間にどんどん離されていくようだ。
「・・・寂しいです。この数週間とても賑やかだったから・・・フェルもいたし」
「でもまた、冬に来てくれるでしょ?今度は子ども達も連れて・・・ね?娘や」
女王は慈しみの目を愛娘に向けた。レーニエはその赤い瞳で母親の視線をしっかりと受け止める。
「それは・・・はい!必ず参ります」
「俺が必ずや陛下の元へお連れ致します」
ファイザルも頷く。
「ならば寂しい事はありませぬ。それに私の退位ももうそう遠い先の事ではないですし」
「!」「は!?」「ええっ!」
「これでももう20年働いて来たのですからね。あなたを取り戻した時から準備はゆっくりと進めてきたのですよ・・・まぁそれでもあと数年はかかるでしょうけど」
「初めて伺いました」
レーニエはすっかり度肝を抜かれている。この母には何度驚かせられるのだろう。ファイザルも大変微妙な表情である。
「初めて言いましたからね」
「しかし・・・陛下はまだまだお若くて、働き盛りでいらっしゃるのに・・・」
「そう持ち上げられ続けて20年休みなしですからね。いい加減腹も立ちます。ましてやこんなに可愛い孫達を見てしまえば。ええ全く」
「・・・」
「ま、そう言う訳で引退後の身の振り方はまだ決めておりませんが。まぁそれは追々・・・ね?とにかくいつまでもこんな仕事やってられないのです。仕事は好きではありますが、引き際も肝心なのです。立派な後継もいるのだから」
「けれど・・・」
「むー!」「まー!」
双子達が話に参加したいとばかりに声を上げた。
「まぁお前たち、お前たちはおばあ様の味方なのですね?ねぇ?こんなに元気に声を上げて」
「お前たち・・・そうなのか?」
ファイザルは情けなさそうに我が子達を見た。くるくるした金髪をけぶらせて二人は父親を見上げている。
「ふぃーふ!」「ふぇい!」
「わ!答えた!答えたよ!ヨシュア」
「ううむ。確かにそんな風に聞こえた」
「ホントかよ、おい。ただの親馬鹿じゃないの?」
「いえ、それにしては絶妙の間でしたねぇ」
セルバローは頓狂な声を上げたが、フェルディナンドは真面目に驚いている。
「当然ですよ、私の孫なのですからね。将来大物です!」
「それは確かに」
光が満ちる晴れやかな居間。双子達の揺り籠を囲んで人々は幸せそうに談笑していた。
未来の事は誰にも分からない。ただ今のこの穏やかな幸せは真実であった。
ノヴァゼムーリャ領主の記録には、この日初めて父と子の会話が成ったと記されている。
◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇
いろいろ矛盾とか、付けたし感があると思いますが、取りあえず完結。思いの外、長くなってしまいましたが、お付き合いくださいましてありがとうございます。後で修正するかもですが、よければ一言感想なりとも。
この後の甘い小話は東日本大震災へ寄せたチャリテイ本に収録して頂く予定です。
申しわけありません。できたらご協力くださいませ。