16
王宮の奥深くで上げられた婚儀から約一月後。
盛夏を
謳歌する都、ファラミアをレーニエが後にする時がやってきた。
秘された王女にして北方領土ノヴァゼムーリャ領主、レーニエ・アミ・ディ・エルフィオーレと国軍将軍、ヨシュア・セス・ファイザル。
彼等は結局南部から戻ってから二月以上をこの都で過ごしたことになる。通常ならば、国境に面した辺境領主がそれほど長く国元を空けることはまずない。エルファラン国は北を除くと、他は隣国との自由国境地帯に接しており、いくら大国とは言っても国境警備と管理は領主の重要な任の内だからだ。北方に関しては北碧海という荒海が自然の要害になっているが、それさえも万全ではない事は、40年前の海洋民族の侵攻が証明している。
では何故、領主がそれだけ長い間留め置かれたか、理由は二つ。
女王、ソリル二世がやっと公けに出来た愛娘を中々離したがらなかったのともう一つ、ザカリエ戦役の英雄ファイザル新将軍がザカリエ戦役の残務処理―――特に戦死したものの遺族に対する様々な対応を、きちんと見通しがつくまで責任を持とうとしたからであった。
だが、それも大方は片付いた。
レーニエが北の領地を離れて既に四月以上になる。彼の地では今頃、早い秋の気配が微かに兆す頃だろう。荒野を覆う夏草は既に色褪せ始めているに違いない。
都よりうすく透明な広い空、針葉樹の上を吹きわたる緑の風、豊かな下生えの中に控え目に咲く花々。そして笑いさざめきながら裸足で駆けてゆく小さな足 足 足。
それらすべてが懐かしくてレーニエはこのところ空ばかり見上げていた。
――帰ろう・・・帰りたい。我がノヴァの地へ
黄昏の金色の光が惜しみなく降り注ぐ庭を歩きながらレーニエはサリアを振り返った。背後に紅色や黄色の花をつけた蔓草を従え、まるで幽玄の国の主のようである。
「ヨシュアがね・・・」
細い指先で長い髪を
弄びながら、レーニエは呟いた。
「はい」
「もう大丈夫だって」
「左様でございますか」
サリアもレーニエが何を言わんとしているかはよく分かっている。
「うん。陛下・・・母上には今朝がた許しをもらった」
「はい」
「三日後に発つ。準備を」
「畏まりました。大丈夫でございます」
サリアの声もどこかうわついている。
「陛下はなんと仰せになられましたか?」
「息災でと・・・そして、必ず帰って来るようにと、それだけ」
「・・・帰ってこられますのでしょう?都に」
「ああ・・・来年の春には」
心穏やかにレーニエは頷いた。
「伐採期と春の畑仕事が終わったら、少し楽になるだろう?そのくらいから夏にかけて都に戻って来よう・・・私は夏が苦手だからそれぐらいが丁度いい。それに冬の間に皆が作ってくれたリルアの加工品を広めるにも都合がいい」
「まぁレーニエ様、レーニエ様ったらすっかり商人のようなもののおっしゃりようですわよ」
心安だてにサリアは笑った。
「私だって、少しは学んだんだから。経済とか流通とか・・・シザーラ殿から」
「そうですわね・・・すっかり気心の知れたご友人になられましたわねぇ」
「うん・・・いつかきっとノヴァにお招きしようと思う。ナディア殿ともきっと気が合う」
「楽しみですわねぇ・・・」
同じ年の友人など、以前王宮で暮らしていた頃には考えられなかった事だ。しかし、レーニエはあの頃のような蜻蛉の如き麗人ではない。少し自信無げな部分は残っているものの、自らを覆い隠す仮面も大きな帽子も捨て去った、ごく当り前の二十歳の娘である。
「きっとそういたしましょうね」
「うん。あ・・・それと、帰る前にフェルに会いたい。呼んで・・・彼の学校の都合に合わせて構わないから」
「――畏まりました。きっと飛んでくると思います。さ、そろそろ中に・・・晩餐は陛下とご一緒になさるのでしょう?支度を致しませんと。陛下は一刻一秒を惜しんでレーニエ様とお過ごしになりたいご様子ですもの。お待たせしてはいけませんわ」
「ああ、分かった・・・あ・・・見て、サリア。空が夢のようにきれいだ」
そう言ってレーニエが見上げた空は、ありとあらゆる有機的な色彩で彩られ、花園と二人の娘を薔薇色に染め上げていた。
レーニエの
招聘を受けてフェルディナンドが彼女の部屋にやって来たのは、翌日の薄暮の頃だった。
「レーニエ様、フェルディナンドが参りました」
「ああ、すぐに通して」
サリアが引っ込むと直ぐに士官学校の制服に身を包んだフェルディナンドが入って来た。扉の前で騎士の礼を取る少年を、少し眩しそうにレーニエは見つめる。
「フェル・・・」
「お呼びだと言うのに遅くなりまして申し訳ありません」
少年は礼の姿勢を取ったまま、まだ床を見ている。
「いや、いいのだ。馬術の試験があったのだろう?聞いている。お前の都合も考えないで悪かった・・・私はいつも気が利かず・・・済まない」
「いえ・・・そんな事をおっしゃらないでください」
フェルディナンドは素直なレーニエの謝罪を聞いてやっと顔を上げた。
「そんなところで立っていないでこっちに来て?ヨシュアはまだ戻らないが構わないだろう」
試験があったのは事実だが、フェルディナンドは特に努力をしなくても主席をとれる自信はあった。それは筆記試験の直後に行われる実技試験でも然りである。
だから、帰ろうと思えばいつでも王宮に帰ることはできたのだったが、フェルディナンドはこの一ヶ月間、一度もレーニエや家族に会いに帰ることはなかった。学問や訓練で忙しかったのは事実だが、それだけではない。フェルディナンドは意図的に帰らなかったのである。
愛する人と結ばれた主人の幸せを喜ばしく思う気持ちに嘘はない。しかし、それをずっと傍で眺めていられる程、自分が大人ではない事も彼は自覚していた。だからフェルディナンドはレーニエが領地に戻るギリギリまで会う事を避けていたのだ。
だが―――
どうしようもなく会いたいと思っていたのもまた事実であった。
「それで・・・試験はうまくいったの?」
レーニエは鈴の鳴るような声で尋ねる。
「ええ、多分」
小卓を挟んで、斜め向かいの長椅子に腰をおろしてフェルディナンドは答えた。レーニエのためにお茶を淹れようと腰を上げかけたが、それを察したレーニエに制される。お茶は姉が運んでくるのだろう。
「そう・・・フェルは偉いね。もう私なんかよりずっと立派だ」
「いいえ、俺・・・私はまだまだです。レーニエ様がいらっしゃるから頑張ってこられたのです」
「学校は面白いところだ・・・また行ってみたいな」
「又来年是非。ですが、今度はもっとお静かにお願いしますね」
フェルディナンドの言うのはつい二週間前の出来事である。セルバローとファイザルを伴って士官学校を訪れたレーニエは、またしてもちょっとした災難にフェルディナンドを巻き込んでしまったのであった。
「あっ、言ったな。ははは、でも楽しかったから又趣向を考えておこうかな?」
「お手柔らかにお願いいたします。あれからなんだか皆が私を敬遠しているようなんですよ」
フェルディナンドも笑った。
「でも、おかげで仲良くなれたやつもいるし・・・ヒューイとも最初は喧嘩からでしたでしょ」
ヒューイとはノヴァの領主村でフェルディナンドの友人となった少年である。彼もレーニエの支援を得て都にさまざまな事を学びに来ていた。彼もまだ帰らない。男の子とはやるべき事を見つけると、こうも潔くなれる生き物なのだろうか?
「フェルはすごいね・・・いつも強くて賢くて優しい」
そう言うとレーニエは腰を上げてフェルディナンドの横に座った。
「お前も・・・私と一緒には来てくれないのだな」
レーニエは答えを分かっていて尋ねた。ついと腕を伸ばすと滑らかな黒髪を梳いてやる。幼い頃よくしていたように。
「・・・申し訳ありません。もう暫く学ばせてください」
「それは・・・お前の望みなのだから、そうするがいいとは思う。だけど、やっぱり私は寂しい」
「レーニエ様には将軍がいらっしゃいます。お寂しい事はありません」
指先が少年の頬に触れる。
「それはそうだけど・・・例えノヴァに戻ってもヨシュアはきっと多忙と思う。砦に詰めることも多いだろうし、私の傍にばかりはいられない。館には何日か
毎に戻って来るだけになるだろう。まぁ、どれもこれも私の我儘だけれども」
「・・・・・・」
「フェル・・・卒業したら帰ってきなさ・・・帰ってきて。必ず、ノヴァゼムーリャに」
不意にレーニエは少年の肩を抱き寄せた。昔はすっぽりと包みこめた肩は広く、レーニエの方が
縋りついているように見える。だが、レーニエは優しい姉がするように何度も何度もフェルディナンドの頭を撫でた。
「ありがとうございます。事情が許せましたならば必ず・・・」
「事情・・・?」
「・・・」
フェルディナンドは抗わずに主が愛情深く撫でるがままにされていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。
「さぁ、今は何とも言えないけれど、いずれ私には様々な任務が与えられるでしょう。私を見込んで与えられた任務ならば、それに応じて国に尽くすのが士官の本懐だと思います」
「・・・」
似たような言葉をかつて聞いた事がある。それは彼女の愛する男が戦場に向かう直前に言った言葉で―――その時の男と同じ表情をフェルディナンドはしていた。
「そうか・・・」
「申し訳ありません・・・こんな言い方になってしまって・・・でも」
「いいんだ・・・フェルももう一人前なのだな・・・優秀なお前の事だから、きっと国の為に必要な仕事を受けるのだろう。私の事などで
煩わしてしまうのは間違いだ」
「いえ、私にとってレーニエ様の事は何よりも大事なのです。今でもこれから先も。でも、私は早く強くなりたい・・・あなたを守れるような強い男に」
「そうか・・・そうだな・・・。・・・うん。これからは会いたくなったら私の方からお前を訪ねよう。でも、危ない事はしないで・・・私の為というのならば」
レーニエはそういうと両手を肩に添えて少年の白い額に接吻した。もう、少し腰を屈めてもらわなければ届かない額に。
「お願いだから」
「はい。レーニエ様にもいつまでもお健やかで・・・私をいつまでもあなたのフェルディナンドでいさせてください」
「ああ・・・無論・・・フェル」
「いつか必ずあなたのもとに戻ります」
目じりを滲ませて自分を見上げる赤い瞳に少年は誓った。
そして、さらにその三日後―――
「では・・・ごきげんよう。お幸せに・・・・又会える日まで」
ソリル二世は娘を抱きしめる。国王である彼女は元老院が認めた理由がない限り王宮を出られない。そしてソリル二世は私的な理由で法を破る事を良しとはしなかったのである。人払いをした北門小宮殿のホールが母娘の別れの場となった。
「陛下・・・母上もお健やかで」
レーニエは自分より幾分背の低い母を抱きしめた。
「来年の春には帰ってくるのですよ・・・ここもあなたの家なのですからね」
「はい・・・必ずや・・・」
「ファイザル殿・・・御身は今や我が国に無くてはならぬお方。まだまだ国防や軍の編成について沢山の事をお願いする事と思います。」
レーニエの背後に立つファイザルに国王は声をかける。
「我が身でお役に立てることがあれば」
「ええ。ですが・・・なにより娘を頼みます。このような願いは御身にとっては言わずもがなの事であろうが、どうかこの子を幸せにしてやっておくれ」
「は。陛下に捧げたこの剣に誓って。我が命に変えても」
ファイザルはその長身を折って最深礼を取った。その広い背を女王は何と見たか、彼女は娘を静かにそちらへ押しやった。
「御身が再び戦に臨む事の無いよう、娘が悲しむ事のないよう、国の平和の為に私も力を尽くします。微力ではありますが。・・・娘や?」
「はい」
「こんなことを申しては無粋なのであろうが、孫の顔を見るのを楽しみにしていますよ」
「母上・・・はい、恵まれましたならば」
レーニエも深礼を取って母の手に口づけた。
「最早行きますか」
「参ります。母上・・・幾重にも心からの愛と感謝を」
「私からもね。さぁ、お行き。私が与えた翼で思う存分生きてゆかれるがいい」
荒野に伸びる街道を馬車が行く。
レーニエは新たな思いで移りゆく景色を見ていた。
3年前ひたすら
茫漠とした思いを抱えて辿ったのと同じ道を、今度は希望に満たされて走っている。傍らをゆく精鋭部隊を指揮するのは彼女の愛する夫で。彼は黒い馬車のそばを片時も離れない。
「見えてきました、レナ・・・」
馬車の扉に馬を寄せてファイザル声をかけた。
アルエの街の郊外。道は小高い丘陵地帯にさしかかっており家並みはどんどん
疎らになって来る。灌木のよく茂ったやや高めの丘の麓をぐるりと超えた途端、視界が大きく開けた。
「おお・・・あれはセヴェレの山並み―――」
だだっ広い荒野。そしてその遥か向こうに聳える峨峨たる青い稜線。雄々しい山並みをもっとよく見ようとレーニエは馬車の窓から顔を出した。頬に感じる風には微かに水の匂いがする。荒野を流れるリームの流れだろうか?けれどこれでは物足りない。もっとノヴァの風を、空を、大地を、直かに感じたかった。
「ヨシュア、私をハ―レイに」
「また、あなたは・・・」
この娘が何時までも大人しくしている訳はなく、いつそう言い出すかと思って常に周囲には気を配っていたが、荒野はどこまでも静かで、人影すら見えない。念のために走らせている先発隊からの報告も通常通りで、これなら大丈夫だろうとファイザルは思ったが、一応困った風を見せた。
「お願い」
「仕方のない人だ。では・・・全軍停止!」
指揮官たる彼の一声で部隊は速やかに動きを止める。ファイザルは馬を下りて馬車の扉をあけるとレーニエが勢いよく飛び降りてきた。奥に座るオリイやサリアに問うような視線を投げかけてみても、噛み殺すだけで何も言おうとはしない。さぞ妻に甘い夫だと思っているのだろう。
「ヨシュア」
「はいはい」
照れ隠しにファイザルは勢いよくレーニエをハーレイに乗っけてやった。いつもの男装だから、服装に気を使う必要もない。
「駆けて」
すっぽりと夫の腕の中に収まったレーニエは大層嬉しげに強請った。ここ数日は馬車での移動だったからずっと退屈していたのだ。それでも妻が自分や夫の立場を
慮り、街中ではじっと我慢していた事をファイザルは知っている。だから叶えてやりたかった。このささやかな願いを。
彼は仕方なさそうに笑った。
「少しだけね。後を頼むぞ、オーフェンガルド」
ファイザルはアルエの街まで一行を出迎えに来ていた友人に声をかける。彼はアルエの街の守備隊長としてファイザルの指揮下に入る事になっていた。
「任せろ。お馬車は薄暮前にお屋敷に送り届ける」
彼も心から嬉しそうに、妻を自分のマントで包み込んでいるファイザルに微笑んだ。
「ご領主様を頼むぞ」
「三騎、ついて来い!はっ!」
愛馬ハーレイに拍車をかける。
「はぁ!」
忽ち馬車を置き去りにして黒い軍馬は荒野を駆けてゆく。
「ああ・・・ノヴァの風だ」
解れた銀髪がハーレイの足並みに合わせて翻る。
「ご気分は?」
「最高!・・・ああ、私も早くリアムで駆けたい・・・元気かな?」
レーニエはノヴァゼムーリャに置いてきた自分の愛馬を思った。
「セバストさんがきっとしっかり世話を」
「そうだね・・・あ、フユコウジの林だ・・・今年の冬にはまた探しに行こう。ねぇヨシュア?」
「楽しみだ」
真冬に実を付ける赤い樹の実。生まれて初めて自分でもいだ果実を口にして喜んだ娘は今、自分の妻で。片手で巧みに手綱を操りながら、ファイザルはその時の事を思い出した。
ハーレイは優秀な軍馬だ。ほんの僅か駆けただけで、夏草に覆われた荒野にところどころ果樹園や畑が見え隠れするようになった。そして、街道の向こうに―――
「あ・・・ヨシュア、村が」
レーニエが指差す。
「ああ」
白く伸びる街道の先にノヴァゼムーリャの領主村が見えてきた。低い屋根の農家は見えないが、村の入り口近くに立つ櫓や広場の集会所の塔が見える。ファイザルはさらにハーレイを煽り、付き従う三騎を離した。
カッカッカッ
ハーレイは小気味のいい調子で固い地面に蹄の音を響かせて走る。彼は最後の緩いカーブを黒い
旋風のように駆け抜けた。
「・・・?ヨシュア、あれは・・・?」
「・・・」
村はもう目前だ。そして街道の両脇に―――
黒い軍馬を見とめた途端、わぁっと歓声が上がるのが聞こえた。
人々が、人々が、人々が―――
晴れ着を着こみ、手に手に花を持って街道に溢れている。我先に駆け出したのは子どもたちで。
「レーニエ様!ご領主様ぁ!」
「おかえりなさい」
小さな足がいくつも懸命に駆けてくるのを見てレーニエは驚きのあまり息をのんだ。ファイザルはハーレイの速度を落とし、だく足にさせる。
「あれは・・・マリ・・・ミリア・・・ヨシュア、これは一体・・・?」
「
漸くご帰還になったご領主を心から出迎えているのでしょう」
「私を・・・?」
「ふ・・・今度はどうやら
匕首を投げられないで済みそうだ。・・・さぁ、レナ、手を振ってあげなさい。ノヴァゼムーリャの領主のご帰還だ」
心からファイザルは笑い、妻の頭に唇を落とした。
「レーニエ様!」
その時、黒い巻き毛を乱したマリが息を弾ませて轡の左から顔を出した。レーニエが声をかける間もなく後から後から次々に子どもたちが、そして・・・
あっという間に人々が二人を取り囲む。さしものハ―レイも歩みを停め、甲高く嘶いた。子供たちの頬は赤く、娘たちは色とりどりのスカーフを振っている。涙をぬぐう年寄りもいる。そして、彼らは一斉に野の花を二人に投げかけた。
それはまるで舞い落ちる雪の切片のようにも見え―――
「ただいま」
かくして、ノヴァゼムーリャの領主は漸く己を見出した北の地へと帰りついたのであった。
一月後―――
リンゼイ・ウィル・フォレストは些か途方にくれて首を垂れた馬を御していた。
「おかしいなぁ、もうそろそろ見えてもよさそうなものなんだが・・・一行に村らしきものが見えない」
アルエの街で聞いた情報によると、街道は一本で迷う事はまずないという事だったが。
しかしこの二刻余り、誰とも会わず、もちろん目指す方角からくる旅人もいない。辺りは秋の花をつけた雑木の生い茂る荒野が広がるばかりだ。緩やかな起伏にとんだそれなりに美しい風景だが、そこには人家は勿論、人の手が入った形跡すら見受けられない。リンゼイはすっかり心細くなってせめて道標でもないかと辺りを見回した。
「あ」
リンゼイは目を凝らした。
彼が認めたのは、前方になだらかに広がる丘の頂きに立つ
鹿毛の馬に乗った人物。さっきまでは見かけなかったから、どうやら丘の向こうからたった今姿を現したらしい。
――良かった。あの人に聞いてみよう。
リンゼイはこちらを見下ろしているらしい人物に向けて大きく手を振った。
「おお」
嬉しい事にその人物は自分の合図に応えてか、馬に拍車をくれると一気に丘をこちらに向かって駆け降りてくる。少年のようなほっそりした姿で大きな黒い帽子を被っているのが見て取れた。
そして――
直ぐにもう一騎が姿を見せた。こちらは一際大きな黒い馬に跨っている。遠目にも明らかに体格の優れた男のようだった、こちらも同じく最初に現れた人物の後を追って丘を下る。最初の人物よりも数段馬術が優れているのか、彼はすぐに鹿毛の馬を追い越し、先頭に立った。
あっという間に黒馬はリンゼイの前に出ると慣れた様子で黒馬を御し、停止する。
「・・・!」
鉄色の髪に青い瞳。腰には実用一点張りの飾り気のない長剣、リンゼイよりは年長のようだが、それでもまだ若いと言ってもよい端正で精悍な顔つき。男は鋭くリンゼイを見た。思わず目を反らしそうになった程、力のある視線だった。
「・・・」
何といって言いものか戸惑っている間に鹿毛の馬が追いついて黒馬の横に停まった。並んでみると馬の大きさの違いもあるが、こちらの人物は先の男に比べるとかなり小柄だった。黒衣に包まれ夏用のマントをはおっている。不思議な雰囲気を纏っているが、少年なのだろうとリンゼイは見てとった。広い鍔に阻まれて顔はまだ見えない。
「ヨシュア!もぅ・・・速過ぎる」
男でも女でもないような透明な声で不思議な若者は抗議する。幾分前にいた男はその声に振り返った。
「当然です。知らぬものにそう無警戒に近づいてはならない」
「知らぬ者ではない。聞いた通りのご様子ではないか・・・」
「保証はありません。ああ、失礼、貴公は?」
再び鋭い視線を返されて
誰何される。それは命令する事に慣れた口調だった。
「あ・・・ああ!私はリンゼイ・ウィル・フォレストと申します。伯父のヘルンの後を継ぐ為、このたびノヴァゼムーリャ領主村に参りました医師の端くれです」
リンゼイは慌てて答えた。
「ほら!思ったとおりだ。私は――」
「失礼とは存ずるが、証明するものはお持ちか?」
若者は嬉しそうに大柄な男に向かって言ったが直ぐに遮られた。口調は丁寧だが、男の方が若者よりも立場が上なのかとも思える。リンゼイはとりあえず、自分が怪しいものではない事を証明してくれる書類を上着のかくしから取り出した。
「はい、え~と。そうですね、道中手形と・・・ああ、伯父貴から貰った手紙がありますが、これでよろしいですか?」
リンゼイから受け取った手紙類に男はさっと目を通した。その間も彼と若者との間に自分を差し入れ、適当な間を空けている。私服のようだが、おそらく軍人だという事は素人である彼にも直ぐに分かった。それもかなり腕の立つ。リンゼイは微妙に緊張したが、しかし、次に男が顔を上げた時、その表情からは幾分厳しさが和らいでいた。彼は丁重に手紙を元に戻すとリンゼイにさし返した。
「成程。これは正式な道中手形にヘルン殿の直筆の書簡。どうも・・・失礼いたした。これも仕事でね、ご容赦いただきたい。無防備なこの方を守るためにどうしても私が用心深くしなくてはいけないのです。私はヨシュア・セス・ファイザル。この地の治安と警備を任されている者」
「ええ!?あなたが名高い掃討のセ・・・いや、こちらこそ失礼いたしました。まさか、ご高名な将軍閣下とは知らずに・・・」
「やっぱりそうではないか!」
「!」
少年は嬉しそうに言ってリンゼイの言葉を遮って嬉しそうに叫ぶと帽子をはね除ける。
秋の透明な陽光に晒されたその人は―――
長い白銀の髪、透き通った赤い瞳に陽の光を映し。
――うわ・・・
リンゼイは言葉を見つけられない。だが、若者は天使のような微笑みを浮かべた。
「私はノヴァゼムーリャ領主、レーニエ・アミ・ドゥー・ワルシュタールと言う。リンゼイ・ウィル・フォレスト殿、あなたをお迎えに上がった」
「こ、これは・・・ご領主様であらせられましたか!・・・失礼いたしました。伯父からよく伺っておりましたのに」
「私もあなたの事はヘルン殿から聞いている。非常に優秀な医師であられるとか。この地はよいところだが、医師の数が少なくて・・・ヘルン殿も長年よく尽くしてくれたが、何分お年で・・・このところは病がちになられて・・・しかし、こんなに若く優れたお医者様が来て下さったのなら、さぞ我が民も安心だろう」
「そんな・・・かい被りでございます」
二十代の半ばであるリンゼイは、美しい領主にまともに見つめられて口ごもった。
「伯父の後を継いで、出来る限りの事を致したいとは存じますが・・・」
「歓迎する」
若い医師に差し出される手。
「よくぞ参られた。この―――ノヴァの地に」
そう言ってレーニエは微笑んだ。
ここで物語はひとまず終わる。
ノヴァゼムーリャ領主、レーニエ・アミ・ディ・エルフィオーレとその夫が紡ぐ物語は、新たな色彩を帯びつつ、次の世代へと引き継がれて行くことになる。
◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇
これにて完結!長い間応援してくださりありがとうございました。どうぞお言葉をお寄せください。