3ヵ月後―――
シュレジアは冬真っ盛りである。
大陸西側のやや北側に位置するシュレジアは夏よりも冬の方が少し長い。といっても、雪はそれほど降らず、降ってもエディールの手のひらの幅より積もる事は稀だった。湖は凍るが、人が乗れるぐらい厚くは凍らないと言ったところか。ただ、風のよく通る土地であった。そのせいか、あれほど陽光が溢れる他の季節と異なり、冬場―――特に真冬は雲が低く、厚く垂れ込め、渦巻き、寒々しい日が続くのだった。
「くどいったら、マール。お前は寝ていて」
エディールの第一の女官マールが風邪を引いた。
うつってはいけないと、マールが自分で寝台の周りに椅子やテーブルでバリケードを張り巡らした外に立ってエディールはきっぱり宣言した。
「でも・・・姫様・・・今日は事のほか風が強うございます」
「風など止むのを待っていては春になってしまう。何が心配なの?いつもの参篭じゃないか。警備のものも手馴れているし、ヴァーノンだっている。大風邪引き込んでいるお前を連れて行くほうがよっぽど不安だ」
「・・・ですが・・・ごほっごほっ」
「ほらぁ、珍しい鬼の霍乱なんだから、無理しちゃだめだよ。」
マールは王女が小さい頃から世話をしてきて、彼女の心の機微を読み取り、いつも大好きな姉のように慕われてきた。勿論武芸にも堪能で、いざと言う時にはエディールを守って戦い、斃れる覚悟はいつもできている。しかし今は彼女自身も記憶にないくらい高い熱が出て、ベッドから起き上がれない状態が一昨日から続いていた。
「ゆっくり寝ていて。リューンにはネイナを付き添わせるから。」
「どうしても今日参られますか?」
ネイナとはマールに継ぐ位置にあるエディールの女官である。マールより少し年下だが落ちついたいい娘だった。
しかし、マールはこのたびの参篭は延ばせないのかと昨日からエディールに懇願し続けていた。なんと言ってもヴァーノンは上の神域まで来られないのだし、ネイナにしたところでエディールの瞑想に付き添ったことは数回しかない。それも、マールの補佐としてだけなのだ。彼女だけで大丈夫なのか、マールは不安だった。
「ごめん。マールの気持ちはわかるんだけど、月のものが終ったばかりの今が一番調子がいいんだ。すぅっと気持ちが澄む感じで。やっぱりこの時を逃したくないの・・・。今回は特に」
本心からすまなそうにエディールは謝った。マールはついに諦めて、気づかれぬよう毛布の影で溜息をつく。頑固なところは父親譲りかも知れぬ。
「なにか、ご懸念でも・・・?」
「や・・・懸念などという物ではなくて・・・でも、今リューンに行きたいんだ。行かなくちゃならない」
こうと決めたら意志の強いエディールをマールはいやと言うほど知っていた。これを覆す事ができる人物がいるとすればヴァーノンだけであろう。だが、今回のエディールのこだわりようは少し今までと違っているように彼女には感じられた。
マールはついに折れた。
「・・・それではいいですか?瞑想なさるときは厚手の衣を幾重にも巻いて・・・沐浴は絶対に下の間で行ってください。お部屋をよく暖めてから。御髪はようく拭いて・・・きちんと乾かしてからでないと、外に出てはなりません」
これくらいのことを言うのにもぜいぜいと喉を鳴らし、時折咳き込みながら言うものだから、エディールはすっかり気の毒になり、いちいちしっかり頷いて、マールを安心させた。どうせ、マールを絶対的に尊敬しているネイナが同じ事を言うだろうし。自分は気持ちよく瞑想ができればそれでよい。
この1年と少し、努力のかいあって、巫祝としての彼女の能力は格段に上がり、条件さえそろえば、かなりの力を集められるようになってきている。もっとも、何事でも伸び盛りというものはあるらしいが。
ただ、普段ならいくらワガママ王女と言われていても、第一の女官のマールが病に臥せっているのに、ここまで我を通すこともなかったはずだったのだが、エディールにはさっきも言いかけたように、彼女なりの理由があった。それはあまりにあやふやで、彼女自身も掴み所がなく、まだ今まで誰にも打ち明けていない、わずかな兆し故だった。
部屋を出るとネイナが控えており、伴って金花宮の正門まで来るとヴァーノンが全ての支度を整えて待っていた。後は馬車に乗り込むだけでいい。
「今日はいつもより風が強いね」
宮の城壁に囲まれた空を見上げてエディールは呟いた。
「・・・マールが今日はいらっしゃらないようにと頼んだのに、お聞き入れにならなかったそうですね」
「・・・」
やっぱり言われるかと、エディールは少しげっそりした。
「・・・今日がいいんだ」
「マールの具合はいかがです?」
「熱が高くて顔が真っ赤。相当ひどい風邪をひきこんでるなあ、アレは。ゆっくり休めばいいと思う」
「・・・・・・・・・」
エディールはちらとその随身を見たが、ヴァーノンの黒いびろうどのような瞳には咎めるような色は見えなかった。いつものように優しく、手を差し出す。
「それではお供いたします、馬車へ・・・」
城門を出、そして街中を抜け、城壁をぬけると共にさらに風が強くなるのがわかる。気温はさほど低くはないが、体感温度はよほど寒く感じるだろう。エディールは寒がりではないが、自分に付き従うネイナやリューンの司祭達には気の毒な成り行きかもしれない。
リューンに入り、中庭に馬車を止めると、ヴァーノンは少し剣呑そうに上を見上げた。雲は低く、激しく流れており、上空では時折空気がどぉんと鳴る。生き物の姿はなく、人々の気配だけが入り乱れ、彼の眉を少しだけ曇らせた。エディールはこんな日に集中して瞑想できるのだろうか?それほど、修養が進んだと言うことなのだろうか。
ヴァーノンの気がかりも知らず、エディールは颯爽と馬車を飛び出す。分厚いかい巻きに口の辺りまで埋まり、帽子をかぶっている。靴の上から柔らかい皮を膝まで巻きつけているので歩く音もしないが、それでも足取りは軽い。ネイナが同じような格好をして後を追った。
「行って来る。明日の朝まで待っててね。ヴァル・・・言うこと聞かなくってごめんね」
駆け出してからとまり、エディールは最後の台詞を付け加えた。ヴァーノンが僅かに微笑むのを見て、元気を取り戻したように又駆けてゆく。
「・・・いってらっしゃいませ」
振り返った鼻の頭が少し赤くなっているのが、見送るヴァーノンに見えた。
リューン神殿では今まで巫祝といわれた人たちの修行を司ってきた。儀式や祭祀など長い年月の間に様式化された様々な仕来りが存在する。勿論、瞑想についても、そこに至るまでに幾つかの段取りがあり、その決まった段取りを順に辿ってゆくことで集中力が高まると言える。まず、沐浴、着替え、そして、香を合わせて焚き染める。全部済ませて頂きの森まで上ってきた頃にはエディールは別人のように凛とした顔つきをしていた。
リューンの森はいつものように静かだった。高いところにあるはずなのに、ここには強い風は吹かない。小さな森は木々が密生しており、だからこそ樹海と言われる所以なのだが、柔らかな苔の道を正しく辿るとやがて開けた草地に出る。そこには歳を経た、しかし、背の高くないエダムの木が数本離れて立っており、エディールは大抵そのどれかの木の下で瞑想する。
しかし、今日はエディールは木の下に座らなかった。雲を見たかったからだ。そして、速い風に早く溶け込んでみようと思った。
ネイナと司祭たちを草地の縁に遠ざけ、ごろりと草地に寝転がる。身を軽く柔らかい上質の布で覆っているので寒くはない。四肢を軽く開いて空を見上げた。
雲は幾重にも重なり合い、混ざり合い、又離れながら刻々とその色合いや光陰を変えていった。ゆっくりと瞼が閉じられる。
早い、高い―――
エディールは飛んでいた。耳元で絶えず風が鳴っている。自分の意思ではなく流れて行く。身を縛るものは何もない。
間違いない
誰かが自分を呼んでいるのだ
ここ数日ずっと一つの方向からなにかが呼んでいるような気がしていた。
それは、非常に微かなもので、最初はなにか、小さな生き物が病んでいるのかと思ったくらいだ。だが、エディールが知っているどんな生き物もこのような気を発した事はなかった。
しかし、月のものが終わり、風の向きが変わると前より少しはっきりと感じられるようになった。
邪悪さはない。しかし、危険がないとは言い切れなかった。そして、やはり今まで感じたことのないものだった。
なんなのだろう?
お前は誰?どこにいる?
そして、なぜわたしを―――
近づいてくる気配があった。すごい速さでなにか大きなものが。
イッショニ イッショニ イッショニ―――
キテクダサイ
ミドリノヒメ―――
お前は誰?
ダイヒ―――
ワレハダイヒ。ワガアルジハソウヨブ
だいひ?いったい―――
今まで静かだった樹海に急に速い風が巻き起こった。司祭達のローブが一斉にはためく。
「!」
ネイナは姫を案じ、向こうで横たわる小さな姿を気がかりそうに見た。
その時―――
反対側の樹海の上から大きな黒いものが現れた。
「! 姫様!」
叫びざま、細身の剣を抜き放ち、ネイナが疾走する。
しかし、巨大な影は比類ない速さで鋭角に空を蹴って下降する。それは信じられないくらい大きな白い鷲であった。首の辺りに手綱のようなものが巻かれ、人が乗っているのが見えた。
「姫様―ーーーっ!!!」
突風に瞑想を遮られたのか、エディールがゆっくりと目を開く。
鷲は細い草を舞い立たせながら着地すると、その恐ろしい鉤爪でエディールを文字通り鷲掴みにすると、来た時と同じく、ものすごい風を巻き起こしながらその巨大な翼で羽ばたき始めた。
ゆっくりと上昇を開始する
「でえええぇーーーーー!!!」
間に合わぬと見たネイナは走りながら剣を投げた。しかし、風圧に跳ね返され、軌道が逸れて見当違いの場所に落ちて突き刺さった。
既に鷲は人の手の届かないところまで舞い上がっている。
「姫!姫様!」
その時、今まで鷲の爪に掴まれ身動きのできなかったエディールが首を廻してネイナを見た。
「エディール様!」
エディールは何か言いかけたようだった。しかし声が届かぬと見て、ネイナに片目を瞑って見せた。そして、大丈夫だとでも言うように大きく頷く。
白鷲は力強く羽ばたいて、木々の上を旋回し、やがて東の方向に飛び去っていった。
シュレジア国王女エディールは拉致された。
▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲
やっと事件が。さて、エディールの運命や如何に!?
4へ 6へ 翠TOPへ