茜雲はゆっくりと流れてゆき、その色合いを暗く落としていった。
宵の帳がゆっくりと下りてくる。
今日はよく頑張ったね。でももう、お休み?と言うようにゆるい風が吹いた。
「・・・冷えてきたな・・・」
上着は車に置いたままだったから、優菜は開襟のシャツ一枚だけだ。
「寒くはないわ」
優菜は答えた。後ろから志郎の腕が肩を包んでいる。彼の体温は高く、まるで寒い気はしなかった。
「だけど帰らなくちゃ・・・」
優菜は小さく呟く。その言葉が合図のように志郎はゆっくりと腕を解いた。途端にシャツの襟元が寒くなる。だが、もう平気だった。
すっかり暗くなった階段を下りてゆく。雨上がりなので滑りやすく、ローヒールとはいえ、革靴を履いた足には剣呑だ。優菜は素直に志郎の大きな手が自分を掌を支えるのに従った。
誰もいない小さな駐車場に小さな街灯が灯り、白い軽トラックが心細げに照らされている。
「腹は減ってないか?」
ポケットから出したキーをカチャカチャ言わせて志郎は尋ねた。
「大丈夫」
「俺は減ってるんだけど・・・」
優菜が乗ると、アクセルは踏み込まずにハンドルに両腕で覆い被さりながら志郎はちょっとだけ懇願するように彼女を見つめた。
「そうね・・・。でも、こんだけお世話になってて申し訳ないんだけど、今日は帰る。帰らせて」
静かに優菜は答える。言葉は他人行儀だが、その口元がほんのり微笑んでいるのを見て志郎は満足することにした。
「わかった。今日は諦める」
エンジンがかかり、車はターンして山陰を出た。郊外の道は新しい街灯が整備されているため真っ暗ではないが、ぽつんぽつんと民家や看板があるだけのなんとなく寂しい道だ。
いつの間にか月ものぼっている。湿気を含んだ大気の中で、輪郭が少し滲んでいた。
帰り道は二人とも口をきかなかった。それは重苦しい沈黙ではなく、軽トラックの小さなスペースの中にはお互いを感じ合わせる空気が満ちていた。
ほんの僅かな時間で優菜のハイツに着いてしまう。軽トラックは裏の畑の脇に停車した。
「今日はありがとう・・・いろいろごめんね?」
優菜は助手席から滑り降りた。志郎もエンジンを停めて優菜を追う。
「そのゴメンは俺と付き合えないっていうゴメンじゃないよな?」
せっかちに志郎が尋ねた。
「・・・・・・」
ふっと優菜が笑う。
「なんだよ、何笑ってる?答えろよ」
「・・・・・・許してあげる」
「え?ホンとか?」
「小さい頃、私にしたイジワルを全部許してあげる」
勢いづいて一歩踏み出した志郎の出鼻をくじくように優菜が笑った。
「えっ、それだけ?」
「それだけでも、すごい譲歩だって思うけど?私って寛大〜〜」
しょぼい柿の木を優菜は見上げた。僅かに実が成っている。
「おい・・・俺は真剣なんだぞ」
「ふ・・・後は貴方次第ね?」
「・・・それは、OKってことか?」
「さぁ・・・」
「くそ、とりあえず明日の晩飯は俺と一緒に取るんだぞ」
「そんな上から物言う人は・・・・・・」
「あ〜〜、悪かった!明日迎えに行くから俺とゴハン食べてください!」
思わず優菜の腕を取って志郎は頭を下げた。
「・・・いいよ」
しばらくして答えが返ってくる。
「・・・!」
がばりと顔を上げた志郎が優菜を抱きしめる。
「ちょ・・・!」
バックを盾に優菜は体を突っ張らせ、志郎を牽制した。意外にも素直に志郎は体を離した。
「〜〜〜〜〜〜」
「貴方でもそんな情けない顔するのね?じゃあ、今日はこれで・・・・・おやすみなさい」
志郎が何も言えない間に優菜はタンタンタンとハイツの階段を上って見えなくなった。
朧な月明かりに照らされた柿の木の下に、志郎がぽつんと取り残される。
「ちぇ・・・・・・さすがに手ごわいな・・・・・・絶対諦めねぇけど・・・」
言葉とは裏腹に、月に向かって弱々しく志郎は呟く。
志郎にとって10年越しの恋が動き出そうとしていた。
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