茜色は君の色 4











― おわ!びっくりした!



すぐに志郎の声が優菜の耳に飛び込んできた。

「あ、ごめんなさい。お仕事中だったのね。切るわ」

― お、おい、マテマテマテって!そうじゃない。オレもお前に電話しようと思って携帯持ったとこだったもんで・・・

「そうでしたか」

― 珍しいな。お前から電話くれるなんてな。

志郎も優菜もメールはめったにしない。メールなら好きなときに見れるから忙しい二人にはその方が都合がよさそうなものだが、二人とも、特に志郎は、メールのような文による伝達が苦手のようだった。

「だって・・・仕事中だと悪いし」

志郎は店舗兼事務所のある駅前ビルの四階に部屋を持っている。ビルといっても四階建ての小規模なものだが、リカーショップ・トウキの持ち物で、二階と三階は堅実な店子に賃貸をしている。名義は兄の悟郎のものだが、志郎は四階の一部を自分の部屋にして独立していた。

もっとも部屋といっても広いだけで、優菜は入ったことはないが、ほとんど眠りに帰るだけの殺風景なものらしい。彼の弁では、家庭を持った兄を早く家に返してやるために遅くまで仕事をしている志郎が、身の回りの荷物を持ち込んだだけのモノのようだった。

― 9時過ぎたらぜんぜん平気だって言ってるだろ?8時にはバイトも帰すしな。

「だけど・・・」

― 9時には兄貴も家に帰すようにしているし・・・・・・なんたって可愛いチビとヨメがいるしな。9時過ぎなら大体事務所には俺一人だ

「うん」

― お前、もう風呂入ったか?

突然話題が変わった。志郎はいつもこの調子だ。

「ええ、さっき上がったばかり。なぜ?」

― 横の窓、見てみ?あ、窓は開けるなよ

優菜は居間の奥の寝室にしている和室の襖を明け、ベッドに上がって横の窓の下を見下ろした。襖を閉めていたためこの部屋は寒いが、おかげで、窓は曇っておらず、いつも志郎が優菜を送ってくれる裏の畑の脇の道がよく見えた。



貧弱な柿の木の下に立つ影。



志郎が窓を見上げている。右手をあげているのは携帯を持っているからだろう。よほど冷えているのだろう。吐く息が異様に白く煙っていた。



「・・・!びっくりした・・・」

―そうか?

しょぼい街灯の光でも体の大きなシルエットはよくわかった。いつものカーキ色のキャンバス地のジャケットをはおり、ニットのキャップをかぶっている。

― あ、開けるなって。外、めっちゃ冷てぇぞ。空気が顔に痛てぇ。風呂上りならすぐ冷えて風邪引いちまう。

「その外に突っ立っているのはどなた?・・・・・・じゃあ・・・・・・部屋に入る?」

少し躊躇ってから優菜は聞いてみた。

― ありがたいお誘いだけどな、やめとくわ。風呂上りのお前目の前にしてなんにもしねぇ自信ないしな〜

へらへらと志郎は笑った。しかし、優菜にはなんとなくわかった。たとえ、志郎を部屋に入れても彼はきちんと自制をするということが。だからこそ、寒い戸外に立たせておくのが気が引けたのだった。

「じゃあ、私が出る」

優菜は室内を振り返りながら答えた。髪はほとんど乾いている。すでにパジャマを着ているが、靴下を履き、コートを着て暖かくしたら大丈夫だと思った。

― ダメだ。お前今、寝間着だろ?オレはこのままでいいから、何か上から着て来い

「・・・うん」

志郎はちゃんとわかっている。優菜は素直に部屋着にしている暖かいフリースのジャケットを羽織ってから窓辺に戻った。

― 電気はつけるなよ。逆光になって顔が見えにくくなるから

「車は?」

優菜は志郎の後ろの闇に目を凝らしたが、いつもの白い軽トラックは見えなかった。

― 置いてきた。最近運動不足でさ、急に走りたくなったんだ。だから、それほど寒くない

「走ってきたの!?」

― 大した距離じゃないぞ?3キロもない。昔はこれでも一日10キロは走ってたしな

「すごい。週末でもないのに」

― そうか?ところで寿が風邪だったってな?今日帰り際に店に寄ってったぞ。なんか元気がなかった

寿(ひさし)というのは竹中君のことで、6月の職場体験学習以来、志郎が店にいそうな時にたまに立ち寄って話をしたり、手伝ったりしている優菜のクラスの男子児童だった。

「うん。三日間休んでた。今日から登校してきたの」

― だってな。ずいぶん流行っているな。今日は女の子が倒れたって?

「よく知っているなぁ・・・私には守秘義務があるんだけど」

― 子どもにはそんな義務ないかんな。寿はだいぶびっくりしたらしいぞ

「私だって驚いたわ。今日お家に行ってきたし」

言いながら優菜は考えていた。かつて自分をいじめていた志郎だったら女の子をいじめたくなるときの気持ちがわかるだろうか?どんな風にしたらいじめられないって教えてくれるだろうか?



― 今年はけっこうひどいらしいな。インフルエンザ

「う〜〜〜ん、そうなの」

奈緒のことを志郎に聞こうとして優菜はやめた。自分がいつまでも子供の頃のことを引きずっているようで志郎にまた気を使わせてしまうかもしれない。それに、せっかく顔を見に来てくれたのに、自分の仕事のことなんかで志郎を煩わすのは良くない。いくら名前などを伏せてもだ。相談相手なら学校にいる。優菜は気持ちを切り替えた。



― 学校だったらナマでばい菌貰うもんな。お前大丈夫か?

「今のところはね。インフルエンザはばい菌ではなくてウィルスだけどね。予防接種はしたから、たぶん大丈夫」」

― そうか。お互いなかなか休めないもんな。んでさ、何だったの?

「何って?」

― 珍しく、お前から電話をくれた理由

志郎は頼りない光の下で笑ったようだった。

「いや・・・特には無いけど・・・どうしてるかなって思って・・・・・・」

―それはありがたいな・・・・・・・

志郎は次の言葉をつむぐ前に少し間を空けた。

こっちはぜんぜん代わり映えしない。・・・ああ、なんか郊外にもう一軒店を出そうかって話が出てる。兄貴がいい土地を見つけたらしくて

「ますます商売繁盛ですか?」

―勉強させて貰ってますからね。ただ・・・

「うん?」

―どんどん 忙しくなりそうで、それは今は憂鬱だ。自分の中の余裕がどんどん減っている気がする

「でも、お店が大きくなるのはいいことじゃないの?よくわからないけど。会社になるの?」

―ああ。今でもイチオ親会社は冬木酒造なんだけどな。知ってる?『松柏』っての。オレんちの酒。お前酒好きだろ?

「知らない。飲んだことない」

― 今度飲ませてやるよ。手前味噌だけどうまいぜ、結構。

「楽しみにしてる。・・・じゃあ、冬木君、寒いのに来てくれてありがと。もう切るわ」

― 待て

志郎が一歩踏み出したのが見えた。

「ん?」

― お前今日、田畑に会ったろ?

「あ・・・うん」

なんとなく優菜は口ごもってしまった。以前の恋人のことをわざわざ話題にするのは気が引けた。

― メールがきたんだ

「あ、そうなのか。うん、ファミレスで偶然会って少しだけ話しただけだから・・・・・」

― ちぇ。そういうことは俺にも言っていいんだぜ

「別に・・・特に話するようなことでもなかったし・・・ああ、会社を辞めたって言ってたっけ?以前の彼女とはずいぶん印象が変わったような感じで・・・」

― ああ、そうなんだ。もともと働かなくてもいいご身分のお嬢さんなんだけどな、俺のツレの誘いでスポーツ始めたらしい

「うん。ジャージを着てた。でも、相変わらず生き生きしててきれいだった。田端さんはメールでなんて?」

自分がさりげなくこういうことを聞けるなんて・・・優菜は意外に思った。

― なんか、お前に発破かけたってさ。アイツのメールはいつも要領が得ん。

「・・・・・・」

― まぁ、大体はわかった。まぁ、そういうことだ。で、今度いつ会える?俺、土日はだめなんだ

「そんなら、よくわからない・・・」

― そか。仕方がないな。また連絡する。・・・また、時間ができたらこんな風に顔を見に来ていいか?古典に出て来るような絵づらだけどな

「・・・それってロミオとジュリエットのことを言ってるの?うん・・・いいよ。・・・待ってる」

― は。・・・じゃあな、お休み

「おやすみなさい」

電話が切れた。志郎が大きく手を上げ、回れ右をして走り去っていく。きっと来たときもこんな風に走ってきたのだろう。優菜は最後まで闇に残った白いズックを見送った。








志郎はポケットに深く手を突っ込んでジョッグの速度で駆け出した。

顔が見られてよかったと思った。もし、部屋の中が暗かったらそのまま帰るつもりだった。

風呂上りだと言っていた。きっと体が火照っていて髪が湿り、いい匂いがするだろう。そばにいればきっと抱きしめてしまう。そして、抱きしめたらそれだけではおわらなくなるかもしれない。だからこれでよかった。まだ、優菜は自分のことを心から信頼してはいないだろう。

さっき事務所で仕事をしているときに頼子から届いたメールは簡単なもので、
<おひさ!羽山さんに会った。彼女相変わらずあんまりしゃべんないからよくわかんない。でも、シロちゃんのこと良く言ったら、嬉しそうだった。また、教えてよね。練習がんばった。来月試合。できたら見に来てね>と言う内容だった。



― よくってなんだよ?嬉しそうってどういう意味だよ?



志郎は一方的な頼子のメールに突っ込んだ。だけど妙に気になって、気になりだすと優菜の顔がちらついて仕事にならず、飛び出てきたというわけだ。静かな中にエンジンの音が響いては優菜が気にするかもしれないと車は置いてゆく。それに無性に走りたかった。

だが、優菜の顔を見て声を聞くともうそれだけでほとんど満足している自分に驚く。

待ってる、と優菜は言った。もうそれだけで。







「志郎!」

不意によく通る細い声が後から聞こえた。振り返ると優菜が窓を開けて身を乗り出している。

「気をつけて。来てくれてありがとう」

優菜は小さく手を振っていた。

「馬鹿!優菜、早く閉めろ!風邪引くぞ、じゃな!」

今度こそもうダッシュで志郎は走り出した。



― チクショーーーー!嬉しいじゃないかよ!



電波の中ではない彼女の声が大脳に染み込んでいく。



「俺ってものすっげ、あほなんだろか?」



地道を蹴る足に猛然と力が篭った。







              ○●○●○●○●○●○●○








ロミジュリ、どうだったですか?
志郎の兄の悟郎は実家の離れに新居を構えています。子どもは一人。二歳の女の子です。







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