茜色は君の色 3
「ブイヤベースを。後、グラスワインを白でお願いします」
母親の長話に付き合って、優菜が奈緒の家を出たときには7時近かった。真っ暗な空は曇っているようで、星一つ見えない。おまけに北風が強く、この後夕飯の買い物に行くのも、帰ってから料理をするのも億劫になって、優菜は国道沿いのファミレスに入った。何か暖かいものを食べて力をつけて帰るつもりだった。
食事時とはいえ、木曜日のファミレスは空いていて、優菜の他にはサラリーマン風の二人連れが喫煙席に座っているのと、反対側の一角を占めているのは、こちらは大人数で賑やかなスポーツクラブのグループだけだった。優菜はどちらにも少し距離を開けて店の奥のほうに座った。
忘れないうちにと、優菜は今日一日に起こったことをノートにつける。固有名詞は使わず、自分にだけわかる記号でメモを取っていく。本当は帰ってからの仕事なのだが、食事が運ばれてくる間の時間がもったいない。今日はもう帰って入浴をし、好きな本でも読んで早く眠りたかった。
料理が来てからはノートの手を止め、グツグツと煮立っているスープを楽しんだ。薄くスライスして焼いたバゲットも添えられていて、スープにつけて食べられるようになっている。奈緒に話した通り、細い割りによく食べる優菜にとってはうれしい量だった。安いグラスワインはほんのり甘く、寒くて心と体が縮こまっていた優菜に元気を与える。
瞬く間に器は空っぽになった。少し休憩を取ってから帰ろうと、優菜は再びノートを広げた。先ほどまでの思考が途切れたので、ぼんやり中空を眺めながら考えをまとめていると突然、近くで甲高い声が響いた。。
「あの〜〜えっと〜〜〜あ、羽山さんじゃないかしら」
驚いた優菜が、ぼんやりしていた視線を定めると、目の前に若い女性が立っている。後ろから優菜のそばを通って化粧室に行き、戻ってきたらしい。そういえば背後から誰かが通り過ぎていったようだったと優菜は思い出した。おそらく、出口のそばに陣取っている賑やかな体育会系のグループの一人だろう。
この町に優菜を知っている人は仕事関係を除いてそうはいないはずだ。ブランド物のスマートなスポーツウエアに身を包んだその人物を、優菜はいったい誰だったろうと思った瞬間名前が浮かんだ。
「田端さ・・・ん?」
「そう。わからなかった?久しぶりだもんね」
「・・・・・・」
この町での優菜の以前のクラスメイト、田端頼子。
確かに最後にあったのは夏前だったから、半年以上経っている。だが、それだけでなく、優菜がわからなかったのは、頼子の持つ雰囲気が最後にあった時とがらりと変わっているせいだった。
優菜の記憶にある頼子はすらりとスタイルのいい肢体を強調するような、やや派手な感じの服を好んで身につけ、持ち物も高価なものだった。今は同じく有名ブランドだが、まるでアスリートのようなジャージを着ている。おまけに上に羽織っているスタジアムジャケットは、優菜の背後で騒いでいる青年たちと同じものだった。してみると、頼子はどこかのスポーツチームにでも入ったのだろうか?
優菜が頼子に持っていた印象はセンスがよくて遊ぶのが上手なお嬢様というものだったから、この変わりようは意外だった。もっとも、そんなに頼子を知っていたわけではないから、変わったかどうかも実際はわからないのであったが。
「お久しぶりです」
何とか優菜は答えることができた。
「羽山さんは仕事の帰り?」
「ええ」
「ふーん、遅いのね。ご苦労様。あっ!ちょっと知り合いにあったから、少しここで喋ってるから!」
頼子は顔を上げて振り返り、背後の自分の連れ達に断って優菜の前に腰を下ろした。
「・・・・・・」
優菜はその行為にどきりとする。頼子がもともと志郎の恋人だったことを知っているし、そして今現在、いささかよくわからない成り行きで志郎と(おそらく)付き合っているのは自分だったからだ。頼子がそのことを知っているのかどうかはわからなかったが、優菜に今、頼子と話すことは何もなかった。
「私ね、会社辞めたんだ。いろいろあってね。もともと好きな仕事じゃなかったし」
「そうですか・・・」優菜はとりあえず無難な相槌を打った。
「今ね、友達に誘われて隣の町のフットサルのマネージャーをやってるの。すごいでしょ?」
「ああ・・・じゃあ、あの人たちは・・・」
「そうチームの人ら。今シーズンだから大忙し。ウチのチーム結構強いんだ。これから練習」
「すごい・・・でも大変そう」
「そう、今いるのは大学生が中心だけど、社会人もあとから合流するしね〜〜、知ってる?フットサルって5人以下でやるのよ」
「いいえ、ミニサッカーのようなものなんですよね?」
「まぁ、そう。でも一応国際ルールとかあって・・・ヤダ。私、何話してるんだろ?いや・・・その・・・羽山さん、今シロちゃんと付き合ってるんでしょ?」
「・・・・・・」
優菜の心底がひやりとする。
「あ、ごめん。トートツに。あの、別にどうこう言うつもりじゃないの。私らとっくに別れてるし。いや、その・・・たぶんそうじゃないかな〜〜って思って、こないだシロちゃんが一人で店番しているときに店に立ち寄ったんでズバリ直球で聞いてみたら、どうもうろたえるじゃない。あのシロちゃんがよ?」
頼子はおかしそうに思い出し笑いをした。
「・・・・・・」
頼子の話し方はまとまりがないが、言わんとすることはわかる。しかし優菜には答えようがない。
「なんかね、この春羽山さんに出会ってからシロちゃんおかしかったんだよね。あ〜〜、てゆうか、私思うに、シロちゃんずっと羽山さんのことが好きだったんだよ。小学校の昔から」
「そんなことはないと思います」
優菜ははっきり言って見た。
「ううん、間違いない。シロちゃんってね、高校でも大学でも結構遊んだクチだったけど、どのコとも長続きしなくて、というのも、シロちゃんオレ様なくせに深入りはしなくて、女の子の方からシビレ切らして離れていくっカンジだったもの」
「・・・・・・でも、田端さんは」
「ううん、おんなじ。私も結構がんばったし、はじめは自信あったんだ。だけど、今から思えばアイツちっとも私を見てなかった気がする。嫌われてたとは思わないけど、ちっとも心ン中に入っていけてなかったし。今ならわかるわ、シロちゃんの心にはずっと羽山さんがいたんだと思うな。」
「そんなことは。だって私がいたのってすごい昔で・・・」
「うん。だけどあの時のこと覚えてる?去年の春ごろだっけ?人通りの多い道ですれ違ったことあったでしょ?それだけで、シロちゃん、羽山さんの事わかったじゃない?」
頼子は彼女の癖なのだろう、手ぐしで栗色の前髪をかき上げながら首を傾げた。
「あ・・・・・」
優菜は思い出した。確かアレはこの町に就職してすぐのことだったと思う。いきなり声を掛けられたと思うと、強く腕をつかまれて驚かされたのだった。
「ね?普通だったら、好きでもなかった女の子のこと、10年ぶりにすれ違ったぐらいで思い出したりしないわよ。羽山さん、そう思わない?」
わずかに声を強くして頼子は言い放った。
しかし、そう断定されてもあの頃は優菜も就職したてで余裕もなく、そんなことを考えるゆとりがなかった。その後いろんないきさつがあって、志郎を今までよりもよく知るようになり、見直すようになって・・・・・・
「だからね、シロちゃんはずっと羽山さんのことが頭にあったんだって思う。でね、何が言いたいかというと、別に今更妬いてるワケではなくて、がんばってねって、ただそれだけ」
頼子の顔には翳りも挑発もなかった。ごく自然に優菜を見つめている。スポーツ系の服を着ているのに、割合しっかり系のメイクをしているのは、練習が引けてから、まだ次の予定があるのかもしれない。
「私ね、別れてからずいぶん泣いたんだ。やっぱり私だって好きだったから。そんで、泣いて泣きまくったらすっきりした。あのさ、羽山さん、シロちゃんのこと好き?」
「す・・・・?え、えっと・・・」
「いや、突然ごめん。ウチの家もそうだけど、シロちゃんの家も結構シガラミあるからね〜。だから、好きだったらちゃんとがんばらないとだめだからね。あ、みんな立ち上がってる。じゃあ私行くから。それじゃね」
言うだけ言うと頼子はぱっと席を立って行ってしまった。優菜も持っているようなスポーツバックを大柄な青年に手渡してもらっている。青年たちは5〜6人もいただろうか?細い頼子の体はすぐに埋もれて見えなくなった。彼らがばたばたとレジを済ませて出て行くのを優菜は呆然と見送った。
最後に頼子はちらりと振り返り、手を振った。頼子は楽しそうに輝いていた。優菜は会釈を返すのが精一杯な自分が少し情けないと思った。
−−普通だったら、好きでもなかった女の子のこと、10年ぶりにすれ違ったぐらいで思い出したりしない
先ほど頼子が言った言葉を優菜は反芻する。
年が明けてから志郎とは二度ほど会っただけだ。基本的に二人とも多忙で共通に休める日が少なく、付き合っているといっても月に2、3度会って食事をするのがせいぜいだ。
志郎は見かけどおりのガサツな人間ではなく、むしろ繊細と思えるほどの心遣いをする。それは優菜にだけではなく、以前学校行事で知り合った優菜のクラスの優しい竹中君が今でも志郎になつき、時々店に遊びに行っていることからもそれはわかる。
優菜に対しても、言葉遣いはあまり丁寧とは言えないが(本人は努めて丁寧にしようとは思っているらしい)、他人に対して臆病なところがある優菜のことを理解し、彼女の気持ちを汲もうとしてくれている―――様な気がすると優菜は最近思うようになっていた。
静かに優菜は席を立った。暖かすぎるレストランの外に出ると、周囲からぴりぴりと冷気が押し寄せてきた。国道沿いの外灯のオレンジ色の光でさえ弱弱しく感じる。急いで手袋をして、優菜は自転車置き場に向かった。
湯舟に体を浸すとようやく固まっていたからだが解けていく様な気がする。このハイツの風呂場はユニットバスではなく、入浴が好きな優菜はそこが気に入ってこのハイツを選んだのだが、こういう時はそうして良かったとつくづく思う瞬間だ。
花の香りの入浴剤を入れて、ゆっくりとマッサージをする。この数日は本当に寒かった。空気も冷たくて乾ききっている。都会の学校に比べて、丈夫な子どもが多い葛の葉小だが、今週は風邪を引く児童がもっと増えるかもしれない。今日、授業中に奈緒が倒れたときは本当にびっくりした。
「結構いろんなことがあった日だったなぁ」
そうして一日を反芻しながらゆっくり湯に浸り、最後に思い出したのは志郎の顔だった。
湯から上がり、肌を整えてよく暖めた居間で念入りに髪を乾かす。優菜の髪は長くて多いのでよほど時間と手間が掛かる。しかし子供の頃から伸ばしていたので、短くする勇気が出なかった。
ふとバックからはみ出た携帯のストラップが目に入った。優菜はためらわずに手を伸ばす。形のいい親指が志郎のナンバーを選んだ。
○●○●○●○●○●○●