茜色は君の色 11
「はい。じゃぁ、この赤い三角形をここに移動させてみると・・・・・・・ほら、対角線が一致してキレイな長方形ができるでしょう?もうわかるわね?こうすると面積が求めやすくなります。長方形の面積は縦かける横。つまり、こんな変な形の図形の面積を求めるときは、直線を引いて図形を分割し、やりやすい形を探すと簡単です」
優菜は黒板の色つきのマグネットシートを指差した。図形の面積の学習で、今日は応用編だった。図形の勉強は算数の苦手な子どもにとってはこれからどんどん難しくなる。特に二次元の形を想像できないと、問題の意味すらわからない場合が多い。
教科書や問題用紙に印刷された図形は小さいものもあるから、優菜は独自に工夫をして色つきのシートをたくさん用意し、黒板の上で分割したり、移動させたりして児童が図形のイメージを持ちやすいように工夫をした。
優菜は算数の指導が好きで、これまでにも体積を求める授業で粘土を用いて、三角形の集まりのように見える四角錐の断面が実は四角形だということを説明したとき(糸で四角錐の形の粘土を切って見せた)には、子ども達から「おお〜」という声が上がったこともあった。
3月も半ばに近くなり、教科書の内容はほぼやり終えてしまったので、今日の研究授業はこれまでの復習をかねた応用編ということに優菜は決めて準備をしていたというわけだ。
子ども達は最初のうちこそ、後ろにずらりと並ぶスーツ姿の大人に緊張していたが、優菜の授業に次第に集中し始め、次第にそわそわした動きがなくなった。
「せんせぇ〜、テストのときに色鉛筆を持ってきたらダメ?」
説明を終えて、児童に例題を解かせているときに鹿島君が元気よく質問する。
「う〜〜ん、ダメじゃないけど、もし間違って塗ったりしたら、色鉛筆は消しにくいよ。おうちでの勉強で問題の数をたくさんやってれば、テストでも大丈夫だと思います。」
「うえ〜〜〜家で勉強?」
鹿島君はいつも思いがけない質問をする。優菜はちょっとあせったが、何とか順当な答えを返すことができた。後ろに並んだ見学者から遠慮がちなクスクス笑いが漏れてくる。優菜の背中に冷や汗が流れた。
しかしそれからはまぁまぁスムーズに授業は展開し、終わりの頃には横山君や、上野さんからも真面目な質問が出たりして、一応無難にまとめて終わることが出来た。
ようやく終了のチャイムが鳴る。。見学者達は子ども達と共に礼をすると、最初に校長が出て行くのを合図に皆優菜に会釈して教室を出てゆく。藤木や永嶋も、授業の後半を抜けて見に来てくれていた。優菜はその場にへたり込みたい気持ちになったがこの後、関係者のみの反省会がある。
授業は水曜日の5時間目で、清掃も昼休みに済ませてあるから子ども達は授業のあと嬉しそうに片づけを始めた。終わりのホームルームでは月曜日から始めている、卒業式で歌う歌の練習を行うことになっていた。ちゃんと真面目に歌えれば練習は一度で終わる。
優菜は最後の気力を奮い立たせてMDデッキをつないだ。すでに子ども達は色画用紙で裏張りした楽譜を持って起立している。
「はい、みんな真面目に授業についてきてくれてありがとう。よくがんばってくれたわね。先生後で自慢しておくね。・・・・・・じゃぁ、もうひとがんばり。一回で終わらそうね。じゃぁ伴奏をかけます。歌いだしに注意してね」
練習を一回で終わらせたいのは実は優菜のほうだったが、何とか落ち着いた振りで優菜は指揮棒を取った。
録音したピアノ伴奏の曲が流れ、子ども達は歌いだした。お世辞にもそろったハーモニーとはいえないが、子どもらしい伸びのある合唱になって来たように思う。
美しい旋律と、子ども達の歌声に、優菜の心の中に張り詰めていた力が抜けてゆく。
「羽山先生、お疲れ様でした。よい授業でした」
校長の〆の言葉で、約20分間の反省会は終わった。出席メンバーは市教委の主事、校長、教頭、教務、学年の二人の教諭で、そこになぜか篠岡准教授が入っていた。各自の前にお茶とお茶請けが出されている。
「今までご指導ありがとうございました」
優菜は立って深々と頭を下げた。反省会は放課後の優菜のクラスで行われたので、少しは気が楽だった。皆が挨拶をして席を立って出てゆく。
「おつかれさん、ほっとしたろ?」
戸締りを手伝いながら藤木がねぎらう。
「はい・・・、本当に」
心から優菜は答えた。これが終わるまで落ち着かない日々がこのところ続いていたからだ。
「きょうはもう帰ったら?送ろうか?」
「いいえ〜〜、なんかもうぶらぶらと一人で帰ります。」
「打ち上げはいつにする?校長さんがご馳走してくれるんじゃないかな?俺ん時はそうだったけど。週末にするか?」
「週末・・・」
優菜は言葉を濁した。週末は・・・・・・・
「どした?デートか?」
「いえ・・・まだまだ皆さん、成績処理や、事務仕事で忙しいですから卒業式が終わってからでいいです、っていうか、どうせ学年末の打ち上げとかあるんでしょ?それと一緒でいいですよ」
「あ〜〜〜、皆はそのほうが喜ぶかも・・・でもいいの?欲がないねえ」
「いいんです。修了式が終わるまでは、気が抜けないし」
「真面目ぇ〜〜〜ま、いいさ。そんならそういうことにしよう」
「はい」
教室の電気を消してドアを閉めたとき、優菜は篠岡が廊下にたたずんでいるのに気がついた。
「やぁ、お疲れ様。とてもわかりやすくていい授業だったよ」
相変わらず魅力的な笑顔で、スーツの着こなしもサマになっている。彼はめずらしく反省会の間中何も発言せず、最後に校長からの挨拶を受けただけだった。
「わざわざ来ていただいて、ありがとうございます」
優菜は素直に頭を下げた。
「もう立派に一人前だね。前にも言ったかな?僕なんかもう置いてきぼりだね」
「・・・・・・」
なんと答えたものか優菜は黙る。
藤木は、その場を流れる微妙な空気を読んで少し躊躇っていたようだったが、篠岡に会釈をし、優菜に「お先に」と声をかけて先に職員室に引き上げていった。
「松居君に今日の君の研究授業のことを聞いてね、ちょうど空いていたし行ってみたくなったんだ。」
藤木が廊下を曲がり、階段を下りてゆくのを見届けて篠岡は話し出した。
「松居君が春からお世話になるそうだし、校長先生にもご挨拶がしたいと思って」
「はい」
「それから君にもきちんと謝りたかったし。いろいろと・・・」
笑顔を引っ込めて篠岡は優菜を見た。真摯な表情だった。
「先生が謝られることなんてありません」
きっぱりと優菜は言い放つ。
「そうかな?僕はずいぶん君を傷つけたんじゃあないかな」
「さぁ・・・もう忘れました」
優菜は窓の外に視線を彷徨わせて答える。
「勘違いしないで。僕はもう君をどうこうするつもりはないよ。ただ、君は本当に優秀で、真面目で、そして女性としてもすばらしいと、それを言いたかったんだ。この間は妙な別れ方をしたからね、ずっと気になっていた」
「・・・・・・」
「もう以前の少しさびしげな女の子はもういないね。君はすばらしく成長した。僕は自分が恥ずかしいよ、とても貴重なものを失ってしまった」
「そんな風におっしゃられても困ります」
「ああ、そうだな。僕はいつもこうだ、今日来たのだって、研究授業も勿論だが、どうしても君にこのことを伝えたくて・・・。いつも自分のことが優先している。・・・すまない」
篠岡は深々と頭を下げた。優菜は戸惑いながらも受け入れることにする。この人が自分をひどく傷つけたのは本当だった。以前の優菜だったら今更こんな風に謝られても、腹だたしく思うだけだったろう。だが、この1年、いろいろなことを経験し、自分でも少しは大人になれたと優菜は思う。
「はい。承りました。私もいろいろ勉強しましたし、ですからもう先生は必要ありません」
心から穏やかに優菜は告げることができた。早春の午後の光が斜めに優菜を照らし、長い髪がひそやかに輝く。
「君・・・・・・変わったね?いや・・・教師として立派になったのは勿論だが。なんだかすごくきれいになった。いや、お世辞じゃなく。・・・・・・もう・・・誰かいるの?」
「・・・はい」
答える必要のない質問だったが、優菜はごく自然に肯定することができた。
「それは・・・・・・いや、よそう。じゃぁ、僕はこれで失礼するよ。もう、校長室にも寄らないから、校長先生には君からよろしく伝えてくれるかな?」
「はい、わかりました。ありがとうございます」
「それじゃあ・・・さようなら」
「さようなら」
優菜は丁寧に頭を下げた。
篠岡が去ってからも優菜はしばらく廊下に佇んでいた。廊下の奥に目をやると、子ども達が閉め忘れた窓がいくつかある。順番にそれらを閉めていきながら、優菜はゆっくりと歩いてゆく。
―これで終わったんだわ。自分自身の試練と、過去の恋と。
廊下の一番奥は外の非常階段につながるドアがある。そこを開けると力強さを増した春の午後の日差しに一瞬視界が射られてしまう。優菜は校舎を出て三階の踊り場に立った。今日も風はやや強い。
眼下に運動場が広がる。
一日の授業を終えてもまだまだ元気いっぱいの子ども達が、気候がよいのも手伝って縦横無尽に動き回っていた。
「あらぁ〜?」
よく見ると、窮屈な研究授業から開放された5年2組の子ども達もたくさんいる。あの大きな体は横山君らしい。校庭の隅にいつも置いてあるヤカンを持ち出しているのは地面に水で線を引いているらしい。ドッチボールのコートのラインを書いているのだろう。周りで今か今かと10人ぐらいがボールを手に待っている。
やっとコートが書きあがり、じゃんけんをしてからゲームが始まる。優菜に上から見られていることを知らない子ども達は自由にコートを駆け回った。
鹿島君、竹中君に、女子は小林さん、大澤さん、上野さん・・・・その中に混じって水島奈緒もいる。横山君が強烈なボールを放ち、受け損ねた竹中君がアウトになる。鹿島君がおどける。キャハハと風に乗って歓声が優菜のところにも届いた。
女子は器用にお互いをかばって逃げたりして男子の目をかく乱する。、男子は男子で、一応女子に投げるときは少し手加減しているらしい。上から見るとそういうことがよくわかる。子ども達の中にも確かに社会性は育って来ていた。
わぁっ!
ひときわ大きな声が上がった。奈緒がうまくフェイントをして、男子の一人にボールが当たったのだ。キャァキャア笑いあって皆でハイタッチをしている。よほど嬉しかったのだろう、奈緒は小林さんと抱き合っている。
―みんな楽しそうだなぁ・・・水島さんも、きっともう大丈夫。何かあってももう友達がいるんだもんね。乗り越えたなぁ・・・
―私は・・・私はどうなのかしら?一つ一つは確かに終わっていく。だけど、ちゃんと乗り越えられたのかしら。子ども達のようにしっかり受け止めて、自分の糧としたのかな?ごまかしたりしていないのかしら・・・・・・
三階の踊り場に吹く風は、時に強く吹き上がってくる。長い髪が浮き上がるように舞った。
―どうなんだろう。ほら!よく考えて・・・・・・
優菜は透明なブルーに輝く春の空を見上げた。しかし面影は空に映るはずもない。
―志郎・・・!会いたい―――
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算数は実は私は苦手でした。だけど図形は好きだったです。正式な学習指導要領が手元にないので学習内容の記述が間違っているかも〜〜〜。
さぁ、いよいよ彼も登場しますよ。
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