突然名を呼ばれ、驚いたように振りかえる広い肩。
優菜はアーケードに駆け込むと、店先で荷物を持ったまま、こちらを見ている志郎の前に駆け寄り、大きく辞儀をした。
「あのっ!今日は本校の運動会のために、職員にまで飲料のご提供ありがとうございました!それで・・・あのっ校長の方から礼状を預かってきておりますので、お渡しにきました!」
志郎はあっけに取られて一気にまくし立てる優菜をながめた。やがてゆっくりと荷物を置き、後ろから傘をさしかけている篠岡に視線を送ってゆっくり頷いた。
「ああ・・・すみません。学校の先生でしたか。今日は運動会ご苦労様でした。御礼状など構いませんでしたのに、この雨の中わざわざご丁寧にすみませんでしたね。今、社長は留守ですが、取りあえず事務室にどうぞ」
意外な志郎の流暢な営業トークに優菜も合わせる。
「はい、それではお手間をかけますがお邪魔いたします。篠岡先生、傘をどうもありがとうございました。ここからはアーケードがありますので、もう大丈夫です。お茶をごちそうさまでした。それから色々お世話になりました。では、失礼いたします!」
頬を紅潮させ、きらきらした瞳に愛想笑いさえ浮かべて優菜は言い放つ。しばらくぽかんとしていた篠岡は、やがて苦笑を浮かべ格好よく会釈をした。
「ああ・・・じゃあ、これで失礼するよ、羽山君。今日はご苦労様、楽しかったよ。松居君に研究授業を楽しみにしていると伝えてくれたまえ」
何をどう思ったか、いつもの穏かな笑顔に戻った篠岡はくるりと踵を返し、雨の中を駅のほうへと引き返す。優菜はもうそちらを見ようともしなかった。
雨はおさまる気配もなく、商店街のアーケードを叩き続けている。いつもなら夕食の買い物客で賑わう商店街の中は人通りも少なく、忍び寄る秋の黄昏の気配に包まれようとしていた。ただし、商店街の入り口にある、この大きな酒屋の店内だけは明るい照明に包まれている。
「・・・で?」
レジのアルバイト青年が暇そうに見ているので、志郎は店の奥に優菜を連れて行き壁にもたれた。形のいい眉を吊り上げ、彼はにやりと笑う。
「は?」
優菜もつられてにやりと笑ってすっとぼける。まだ鼓動は収まらず、息が上がっていた。
「は?じゃないだろ?俺をダシにしやがって」
先ほどとはガラリと口調を変えて志郎は腕を組み、背中を曲げて優菜を覗き込んだ。
「バレましたか」
優菜も足を踏ん張り、しっかりと志郎を見返して答える。
「俺だって昨日生まれた訳じゃないからな。・・・で、あのキザ野郎がお前のオトコって訳だ。あまりいい趣味とは思えんがな」
「悔しいけど当たりだわ、過去形だけど。え〜〜と、すみませんね、お邪魔してしまって。じゃあ私はこれで・・・」
「あれ?校長先生からの礼状を見せてくれるんだろ?まぁ、中に入れよ。幸いこの雨でお客はいないけど、バイトはいるし。辻褄だけは合わせておかないと」
優菜はとりあえず素直に、志郎の開けた事務室のドアの中に入った。ここではいつ急な客が入ってくるかわからないからだ。
「ごめんなさい、厄介ごとばかり・・・・・・」
「いいから。結構濡れてんぞ、お前。又熱出されて、医者に連れて行かされたんじゃ、かなわんからな。タオルを貸してやる」
「・・・・・・」
痛いところを突かれて優菜は返す言葉に詰まる。志郎の言っている事は正論なので仕方なしに優菜は従った。
「俺は店で商品チェックをしているから。遠慮なくこれを使え。鏡は、奥にある」
そう言いながら棚から清潔なタオルと、驚いたことに櫛まで志郎は差し出し、志郎は事務室を出て行った。
「ありがとう」
優菜は素直に受け取り、事務室で湿ったジャケットを脱ぎ、いつも後ろで一つに結わえている髪を解き、ペタンとしてしまった前髪を丁寧に拭ってから貸してもらった櫛で梳いた。優菜の髪はゆるいウエーブが自然にかかっているので、濡れるとまったくのストレートへアになる。
雨がかかったせいで少し湿った長い髪は蛍光灯の下で密やかな光沢を放ち、艶やかに背中に流れた。
鏡の中の優菜の頬はまだ紅く、いつもは静かな光を湛えた瞳は今、くっきりと見開き、輝いていた。
―なんでだろう・・・私ずいぶん興奮していたんだわ・・・。だけど、これでよかったんだ。これでやっと、勝手に拘っていた苦々しい恋から開放されるんだ。そんな値打ちもなかったのに。ずいぶん長かった気がするけれど、終わる時はこんなものかもしれないな・・・・・・
恋愛に経験不足で、それ以上はよくわからない。だけれども、当の相手を自分から見限ったことで、なんだか非常な高揚感があるのは事実だった。そして志郎の姿をロータリーの向こう側に見かけたときから、何故だかクソ度胸が湧いたような気がした。
―校長の礼状だって。ふ・・・よくもまぁあんなウソが咄嗟に出たもんだわ。
商店会から運動会に職員の飲料を提供してもらったのは事実だから、篠岡が聞いても別に疑わないだろう。
身なりを整えて店に戻ると、志郎も濡れた作業上着を脱ぎ、緑色の店のロゴ入りエプロンをつけて仕事をしていた。体格がいいせいで、エプロンがやたらと小さく見える。
「またお世話になってしまった・・・ありがとう。タオル、洗濯してお返しします」
「ああ、別にいいよ。そこら辺に置いてて。それよりこれから打ち上げ会じゃないのか?」
「え?なんで知ってるの?」
「ふん、商店街のオヤジ情報ネットワークを舐めるなよ。伊勢寿司で5時半からだろ?もう、5時過ぎだぜ?」
伊勢寿司というのは志郎の店とは反対の出口付近にある、ここらでは一番大きな料亭で、30人規模の宴会が出来る。小学校でも何回か利用しているが、彼女自身は行った事がなかった。
「ええ・・・でも、もう行かない。そんな気分じゃなくなって・・・あ、伊勢寿司さんの電話番号わかる?キャンセルするわ」
「ああ・・・待て。ええと・・・い・・・い・・・あった、伊勢寿司。これだな」
志郎はポケットから携帯を取り出して探していたが、直ぐに優菜に画面を向けた。
優菜は店に自分がキャンセルするので待たずに始めてくれという旨を、幹事に伝えてくれるよう頼んで携帯を切ると、志郎がしげしげと自分を眺めていることに気がついた。
「何?不思議そうな顔」
「いや・・・、でも本当に行かなくてもいいのか?今日はお前も活躍したんだろう?」
「活躍なんて大してしてない。それに、もうどうでもいいの。今日は疲れたし、このまま帰るわ。あ、そうだ。お酒でも買っていこうかな?」
優菜は通路にケースごと所狭しと並べられている、ビールや、缶チューハイを面白そうに眺めた。
「酒・・・?飲めるのか?」
「失礼ね。私だって大人だわ。お酒くらい飲めます・・・っていうか、好きなほうだわ。大勢で飲むのは苦手だけれど。あら、これおいしそう・・・」
「お前・・・ちょっと待てよ。ん?ああ・・・お帰り、ちょっと頼めるか?」
志郎はそう言うと、ちょうどウラの倉庫から入ってきた青年に声をかけた。休憩に入って早めの夕食をとっていたらしい。
「なんスか?店長」
「この雨だろ?そう客も来ないし、俺は、ちょっと友だちを送ってくるから、田村と二人で店を頼むわ。7時には兄貴も帰ってくるから、お前はそれで上がっていいし」
田村というのはレジに立つアルバイトのことだろう。その青年の名札には大西と書かれている。
「はい。大丈夫っす。しっかし、すごい降りになってきたスよ?10月なのに、まるで夕立だ」
「おお、じゃ頼むな」
志郎はエプロンをむしり取った。
「行くぞ」
「え?」
一人でカゴにフルーツ系の缶チューハイや、安物の白ワインを放り込んでいた優菜は、二人の会話をロクに聞いていなかったらしい。驚いて、志郎を見上げた。
「何?あ、これも美味しそう・・・」
「いいから、こっち来い!」
「ちょ・・・、レジは・・・え!?冬木君?」
カゴごと裏口へ引っ張られ、優菜は慌ててバッグから財布を引っ張り出そうとした。
事務室のドアの横にある裏口は外が大きな倉庫になっていて、いろんな酒や飲料の入ったケースが優菜の背より高く積まれており、入り口近くに軽トラックが2台停まっている。志郎が先ほど下りてきたトラックは倉庫に入りきらずに、広く開け放された搬入口に横付けにされて雨に濡れていた。志郎はその車へと優菜を連れて行こうとしているのだ。倉庫には人気もなく、寒々としていた。
「冬木君ってば!」
商品の壁で出来た通路で優菜は志郎の手からカゴを奪い返した。
「困るわ。急に・・・変に思われたかも・・・」
「変なのはお前だろ!」
優菜の言葉を遮り、志郎は怒鳴った。
「!?」
優菜は目をみはった。
「さっきから何をオタオタしてるんだ?やけにお喋りだし。そんなにアイツの事が気になるのか?別れたんだろう」
「気になるって?あんな人の事が?まさか」
志郎の問いかけがあまりにも滑稽で、優菜は嘲笑った。
「じゃあ、なんでそんな、らしくもなくテンパってる?まだ好きなんだろう」
「そんな事はないわ」
「だけど、なんかあるだろ?言ってみろよ。お前、変なスイッチ入ってるぞ」
志郎も食い下がる。
「変?」
その言葉に優菜は眉を吊り上げて志郎を睨んだ。ゆっくりと買い物カゴを足元に置く。
「あなただってこの間私に言ってたじゃない、田端さんのこと。自分に合わないから別れたって。私だってそのくらいの事は言えるわよ」
「・・・・・・・・・」
「あんな人、もうちっとも好きじゃない。かつては好きだったかもしれないけれど、今日のことで目が覚めたの。それだけのこと。ちっとも不思議じゃないわ!」
自分を守るように両手で胸を抱きしめ、優菜は言い放った。そして、優菜の感情が昂ぶるにつれ、志郎は逆に冷静さを取り戻してゆくように静かな表情になっていく。
「羽山・・・・・・」
志郎は優菜の肩に手を置こうとしたが、その前に邪険に振り払われる。
「落ち着け。わかったよ。もう、言わなくていい、すまん」
「・・・・・・・・・」
優菜は呆然と志郎を見上げた。
「羽山・・・・・・あんま、無理して突っ張らなくてもいいぞ。俺の前では」
「突っ張る・・・・突っ張るって!?」
またしても、優菜の中に新たな別の激しい感情が吹き上がった。
幼い日の自分に初めて屈辱を味わわせ、ひどく傷つけたのは誰あろう、目の前のこの大きな男だったのだ。それ以来、優菜は極力目立たないように、出る杭にならない様な処世術を身につけ、用心深く生きてきたのに。
―私に突っ張らなくっていいですって?自分に近づいてくる人間には、耳を伏せて警戒しなくてはならないことを教えてくれたのは貴方だったのに!
冷静な時だったら、責任転嫁も甚だしい理屈であるが、この時の優菜はやはり志郎の言うとおり、少し変だったのに違いない。朝から緊張し続け、テンションをマックスに上げてマスゲームの指揮を取り、成功させ、その後に篠岡との事があったのだ。もう心の一日分の許容量はとっくに限界を超えていた。
「なによ・・・・・・勝手な事を・・・貴方なんて、お金持ちで、友達も多くて、なんだって持ってたじゃない・・・それなのに私をいじめて、馬鹿にして・・・・・・楽しみにしていたクリスマスのケーキだって目の前で台無しにしてくれたんだわ・・・・・・」
優菜の目の前に、無残にへしゃげたケーキがイチゴの色まで鮮やかに蘇った。
「羽山・・・」
小柄な優菜に下から睨まれて志郎は柄にもなくたじろいだ。構わずに優菜は続ける、と言うか、一度語り語りはじめると止まらなくなっていたというのが正しかったかもしれない。
「あの時どんなに私が悔しかったか、想像もした事ないでしょ・・・あれから私、他人を素直に信用できなくなった。だけど、ずいぶん苦しんでやっと人を好きになって・・・そして馬鹿みたいに捨てられた。それでも自分が悪かったんだって無理やり納得して、教師になったのに・・・又ここで貴方なんかに出会ってしまった!ばっかみたい!」
「・・・・・・」
「キライよ!貴方も、篠岡先生も大嫌い。なんて勝手なの!もう私に構わないで!」
高い、哀しい叫びが倉庫に響いた。
優菜は叫んでしまってから、はっと我に返ったように身を硬くした。華奢な体がゆらりと後ろに傾ぎ、志郎は思わず腕を差し出したが、優菜の体に触れる前にさっと身をかわされた。
「・・・・・・まぁ、別にもうどうでもいいわ。今更、貴方にどうしてくれなんてまったく思ってないし・・・何もかも忘れて頂戴。確かに私、今ちょっとおかしいかもね。・・・すみませんでした、大きな声を出して。ああ、送ってくれなくても大丈夫、今すぐ帰ります。お金受け取ってくれないなら、これは置いていくわ。さようなら!」
眉をしかめ、目を逸らし、極めて苦々しく言い捨てて、優菜はコンクリートの上に置きっぱなしの缶チューハイやワインボトルの入ったカゴを指さす。そのまま搬入口へ身を翻そうとした。
気持ちはとっくに外に飛び出して、雨に打たれているつもりでいたのに、体はちっとも前に進んでいない。優菜は手を前に伸ばしたまま動けないでいた。
体が志郎の腕にしっかりと抱きしめられている。
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優菜、キレました。普段控えめな人がキレると怖いと思います。
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