「君との事は別に終った訳ではないと思っているんだ」



雨が激しさを増す。一番悪い時に外に出てきたのかもしれない。優菜は混乱した頭の隅で、今頃自転車を飛ばして家路を急いでいるであろう松居の事がちらりと浮かんだ。だが、彼女は地元の人間だ。おそらく大丈夫だろう。

優菜はぼんやりと視線を目の前の人物に戻した。





「君の事は今でもとても愛しいと思っている。聡明なところも、努力家であることも」



―この人はいったい何を言っているの?



優菜が言語能力を回復出来ないでいる間にも、篠岡は続ける。大きな黒い傘の上に雨は音を立てて降りそそぎ、周囲からベールのように滴り落ちて、その中を外界から遮断する。

これではまるで、二人してここに閉じ込められたようなものではないか。二人の間には篠岡が支える木製の柄が一本。優菜にとってそれは耐え難い空間だった。

「君が大変な努力をして難関の試験をパスして嬉しかったのは事実だし、このあたりで精神的に一人立ちしてもらおうと思って少し冷たくふるまった事は認める。だが、決して君を嫌っての事ではなかった。だが君は僕に振られたと思いこんで、あれから連絡一つ寄こさないまま、こちらに就職してしまった。今回、松井くんの実習で、又出会えたのは偶然だけれども、これからの二人は偶然じゃない」

優菜の心中など知らぬかのように、滑らかに篠岡は話続けた。まるで予め用意してあった台本を読んでいるようだと優菜は思う。

「君はとても純粋な人だったろう?僕には眩しいくらいに。あの日、僕に喜び勇んで合格通知を見せに来てくれた時は、本当に嬉しかったものだよ」



―あの日・・・あの日ですって!?



優菜の脳裏に忘れたくても忘れられなかった日がまざまざと蘇ってきた。



あの日、優菜は臨時講師の仕事を終えると、急いで家に帰り、息せき切って郵便受けを見た。職場のパソコンからネットで合否はわかるのだが、もしダメだった場合、態度に出てしまって気を使われるのを嫌って、通知が来るまで待っていたのだ。

うすっぺらい封筒にそっけない文字で印刷された合格の文字は、生まれて初めてと言っていいくらい優菜を有頂天にさせたのだ。

そして、その足で久しく会えずにいた、恋人と思っていた人の元に駆けつけたのだった。

いつもの部屋。優菜と二人で過ごしたこともある、雑誌のグラビアのような美しい部屋のドアを開けて―――



―君にして上げられる事はもう何もない



いきなり訪れた喪失感。そして、甘い言葉と態度に容易く身を委ねてしまった自分への激しい怒りで、一人きりでも涙を流すことが出来なかった。だから歯を食いしばり、必死の思いで砕けた恋心を葬り去った。

やはり、自分は一人きりなのだ。この世で自分の力だけを信じて生きていかなくてはならない。甘い夢は見てはならなかった。今までもそうだったように。

その後しばらくして大学に残った友人から、篠岡が新しい事務職員の女性と婚約中であったという事を聞き、優菜は全てを理解した。その女性こそ、彼のもともとの恋人で、都会で大学講師をしている篠岡を追って郷里から出てきたのだ。


そうして、再び新しい土地でがんばる決心をしてここまでやってきたのだ。なのに、この人は今更何を言い出すのだろう。



「・・・・・・・・・いいえ、いいえ。私にそんな気はありません」



我ながら驚くくらい、冷え冷えとした声が漏れた。

「羽山君?」

優菜の膝は震え、崩れ落ちないように気持ちを立て直すので必死だった。情けなくも声の堅さだけは隠しようもなかったが。

歩かなければ。

優菜は思った。ここで立ち止まってはならない。

くるりと踵を返して、濡れるのも構わず、優菜は駅のほうへ歩き出す。本当は走り出してしまいたかったが、うまく膝に力が入らなかった。

「何故?もう僕の事は忘れてしまったの?」

直ぐに大またで、篠岡が追いつく。黒い傘のせいで視界が暗くなった。



―それはこちらの台詞だわ。



優菜は再び傘の外へと踏み出した。

喜びを分かち合えると思った人に何の前触れもなく、言い訳もなく、別れを告げられ、胸がつぶれる思いで呆然と篠岡を見つめた自分をそっけなく部屋から追い払った日のことを、この人は忘れているのだろうか?あれからまだ一年とたっていないのだ。



「お世話になった事は感謝をしています。でも、もうそれだけです。放っておいて欲しいんです!」

振り向かず、優菜は歩いた。駅の高架は目の前だ。ここを超えて、ロータリーを回ると商店街のアーケード。既に打ち上げ会に行く気持ちはすっかり萎えていたが、この場を切り抜ける口実が要る。

「もしかして、僕の婚約の噂を聞いたからではなかろうね?それは誤解なんだよ。確かにお互いの家の合意で婚約はしていたが、やはりそういう間柄では上手く行きようがなかった。お互い大人だったし、合意の元に別れたんだ。それだけのことなんだ」

見え透いたことを。優菜は心の中で哂った。

優菜との付き合いは、篠岡から秘密にしてくれと言われていた。学生と講師なのだから、その時はそういうものなのかと思った優菜も、篠岡の立場を慮って自分たちの事は親しい友人にも話さなかった。

しかし、当時から篠岡と女生徒、女子職員の噂は少なくはなかったのだ。篠岡が気にする事はないと請合ってくれたので、優菜も一途に信じてしまったが。、今はそれさえも愚かしいと自分に舌打ちをしたい気持ちだ。

おそらくかつても、恋人と離れたその間隙を埋める間に合わせに、世間知らずで身寄りのない自分は利用されたのだ。

そして、今も又、利用されようとしている。

―おあいにく様ですわね、先生。私も少しは賢くなったのです。あなたのおかげで。

「それも私にはもう、どうでもいい事です」

仕事の腕は確かにいい。研究にも熱心だ。そして、自分を上手く見せるための努力は惜しまない人だ。



―だけども、いらない。もういらない。



優菜は彼女が指導を重ねたマスゲームの、運動会に到る昨日までの連日の練習と、今日の本番の様子を思い返した。

初めは何を求められているのかわからず、右往左往していた5年生たち。振り付けをビデオにとり、優菜は研究した。わかりやすく伝えるにはどうしたらいいか?何度も曲を聴いて同じ動きを繰り返す。指導する。子ども達の意見を取り入れる。どんどんどんどん上手になる。少し厳しい叱咤、そしてたっぷりの褒め言葉。笑顔、笑顔、笑顔

優菜の耳の奥で、飽きるほど聞いた曲のクライマックスが鳴り響く。



―さぁ、ここから盛り上がるよ!よく曲を聞いてね。列の外側の人は少し大変だけど、一生懸命走ってください。そうして、そう、ここでポーズ!腕をいっぱい伸ばして!かっこつけて!



「かっこつけて!」優菜は呟いた。



―なんて格好悪い私だったかしら?なんであんな格好悪い人、好きになったのかしら?ばーーーーっかみたい!



ひょいと歩道の段差を飛び越える。



―失敗したっていいわ。一から何度でもやり直せる。そんなの小学生だってやってのけてる。大丈夫!



優菜はぐいぐい高架をくぐり抜けた。ロータリーの向こう側に白い軽トラックが停めてあるのが目に入る。

優菜の足に力が蘇った。殆んど小走りに歩道を回ってゆく。篠岡が傘を差しかけてついてくるが、もうどうでもよかった。





運転席から飛び降りた大柄な人物は、激しい雨を通してもよくわかった。
雨に濡れること等、ものともしていないような、逞しい腕が荷台から大きなケースを下ろしている。

優菜の足が更に速まった。





「あのっ!冬木さん!こんにちは!」

篠岡が聞いた事もないような優菜の大声だった。









             ○●○●○●○●○●○●









優菜、大きな一歩を踏み出す。この人が大声を上げるのは大変珍しいです。








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浅葱色に涙は散りぬ