一週間後にはじまる教育実習は、三つの大学から四人の学生を受け入れることになっていた。初めに校長から挨拶と訓示があり、教務主任から重々しく実習中の注意点などが説明される。その後、学生達に実習中の指導教官が紹介された。
学年主任から聞かされていた、優菜の後輩は松居かおりという明るく、真面目そうな女子学生だったが、優菜は軽く会釈をするのが精一杯であった。
大学側から担当者が挨拶に来ていたのは、優菜の母校のO教育大学だけだった。
普通、教育大学の学生は付属の学校に実習に行くのだが、この学生は特別な事情により、自分の出身校に実習にくることになった為、大学から担当者が来たとのことだった。大学側としては身内の外に学生の実習をお願いする立場だから、その担当者はくれぐれも宜しくと校長に丁寧に挨拶を返していた。
「よろしくお願いします」「がんばってください」、幾度そんなやり取りを聞いただろう。小一時間のガイダンス中、優菜は一言も口をきかなかった。
ようやくそれも終わり、教師志望の学生達は帰っていった。指導教官になった先輩教師達も自分の仕事に戻るため、急ぎ足に会議室を出てゆく。勿論、優菜もすぐさまその仲間入りをするところだったのだが・・・・・・
「羽山君、待って」
会議室の奥から、声がかかる。懐かしい、でも二度と聞きたくなかった声。会議室のドアに手を掛けていた優菜はしかたなく振り返り、僅かに会釈する。ここには校長も教頭も教務主任もいる。常識のないマネは出来なかった。
声をかけたのは母校から実習生の依頼にやってきた、かつての優菜の師だった。
「おや?篠岡先生は、ウチの羽山先生をご存知で?そういえば羽山先生もO教育大学だったっけ?」
今まで、ガイダンスを行っていた教務主任が、打って変わったのんびりとした声で優菜に問いかける。
「ええ、私のゼミの学生でした。たいへん優秀な学生でしたよ」
かすかに頷いただけで、答えない優菜にかわってO教育大学の准教授、篠岡はにこやかに世辞を言った。
「ほぅ、そうでしたか」
校長が人の良さそうな顔の満面に笑顔を浮かべる。
「いいえ・・・普通でした。ありがとうございます。申し訳ありませんが仕事が残っているので、これで失礼します」
「羽山君、今日は何時ごろ上がりかな?久しぶりに話をしたいんだが」
篠岡は立ち上がって、優菜の側に立った。彼は上背はそれほどでもないが、整った顔立ちで他校の実習生達がらちらちらと視線を送られていた。
「・・・すみません。今日はまだノートの山に目を通していないんです。明日の授業の下調べもまだですし・・・いつ終るか自分でもわかりません。残念ですが・・・」
「でも、もう5時前だよ?勤務時間は終わりだろう?」
柔らかく篠岡は優菜を見つめている。穏かな茶色い瞳。
「現場において勤務時間なんてあってないようなものなのです。申し訳ありません」
相手はおそらく冗談で言った質問だろうが、優菜は真面目に受け流す。
深々と頭を下げ、会議室を後にした。
そのまま隣の職員室には戻らず、自分の教室のある3階まで小走りに駆けた。3階の廊下は落ちかける陽がまともに射して壁に反射し、空気は黄色く、夕刻とは思えない明るさだった。しかし、9月の終わりともなると、さすがに真夏の蒸し暑さとは違う何かが肌に感じられる。
優菜は息を切らせて埃が乱反射する廊下を進んだ。
カララララ
教室の引き戸を開けると、開けてあった窓からカーテンをはためかせて風がはいってくる。その風にも、もはや数週間前のような熱気は感じられない。優菜はドアを背にしてぼんやりと教室を眺めた。
あまり掃除が行き届いているとはいえない床。壁には習字や図画などの様々な幼い掲示物。時計。机、机、机。
見慣れたそれらのものを見ていると次第に気持ちが落ち着いてきた。動悸がゆっくりと収まってゆく。ここは彼女の城なのだ。
日の差す方向に壁があるため、室内はやや暗く、優菜は電気を付けた。教卓の上には山積みにされた社会科のノートがある。
どさりと椅子に腰をかけ、幼い字で名前の書かれたノートを取り上げた。一週間に一度、こうしてノートをチェックするのは優菜の方針だ。ノートのとり方で理解度や意欲がよくわかる。そして、最後のページに一言アドヴァイスを青ペンで書いてやる。
優菜はペンを走らせる。
〜先週よりキレイに書けているね!わかりやすいよ。
〜水曜日のノートが半分も抜けているよ。見せてあげるから先生のところに来てね。
〜たくさん色ペンを使うのはいいけれど、項目ごとに整理しよう!
等など。
夢中になってノートを点検していくうちに乱れていた感情はなりを潜め、子ども達のことで脳内は埋まってゆく。。見る見るうちに最初のノートの山は三分の一に減ってゆき、反対側に積みあがっていった。
子どもというのは面白いものだ。自分が強調したくて声を大きくしたところは、どの子どものノートも字がしっかり書けている。反対に少し流したと思う部分は適当に書いてあったり、ひどいのは書いていなかったりする。児童のノートは自分の授業の鏡のようなものだと優菜はおかしくなった。
―ちゃんと教えなくっちゃ。ちゃんと、しっかりと。だけど・・・・・・
ふっと肩の力が抜ける。自然とペンを持つ手が止まった。
窓の外にはイワシ雲。あんなに湧いて出ていた入道雲のかけらもなく――
―しまった!外を見るのではなかった
優菜は舌打ちしたい気に駆られたが、後の祭り。あっという間に追憶の海に沈んでしまう。
篠岡修司
優菜の初恋の人。地味で真面目なだけの学生だった優菜の生活に彩りを添えてくれた男性。初めはただ尊敬していた。追いつこうと見つめているうちにいつしか好きに変わり、愛になった。
先ほどは准教授と紹介されたが、その当時は講師で心理学が専門としていた。特に児童発達心理学については興味深い論文をいくつも学会に発表していて、優菜も夢中で勉強した。ついてゆくために、認められたいがために。
早くから両親を失くしたために大人びては見えるが、その実、臆病な優菜の目には10も年上で、大学講師の篠岡は充分大人で、そして魅力的だった。
彼は色白でやや長めの前髪の下にいつも優しげな微笑を浮かべ、面倒見がよく、女子の多い大学で口さがない女子学生達にも受けがよかった。物柔らかな態度に似ず行動的で、研究熱心で、心理学という学問の性質上たくさんの事例を得る為に、絶えず様々現場に足を運んでは研鑽を積んでいき、「現場に学ぶ」というのが持論だった。
そんな篠岡に優菜はいつしかどんどん惹かれていった。
―羽山さん、この間の1日幼稚園実習のレポートね?よく書けていたよ。よくあれだけ観察できたね。
―ありがとうございます。
―あれね、向こうさんへ送ってもいいかなぁ?園長先生も喜ばれると思うんだ。園児に対する保育士の動きなどもよく見れていたからね。
―はい。私などのでよかったら。喜んでつかってください。
喜びで胸が高鳴るのを見せまいとしながら優菜は頷いた。
―羽山さんは本当に子どもが好きなんだなぁ・・・・・・今回の採用試験は残念だったけれど、現役ではなかなか合格しないのが採用テストだから、諦めずに頑張って欲しいな。
―はい。そのつもりです。
―だけど、卒業したらどうするつもりなの?就活してないだろう?
―・・・・・・ええ、やっぱり教師になりたいんで、バイトとかしながら勉強するつもりなんで・・・
―羽山さんは真面目だね?いっつも本とか読んでる。恋人とかはいないの?
―そんなの・・・
―へぇ、意外だなぁ。こんなに美人なのに
―・・・・・・・・・
―あれ?まっかっかだ。そんなこと言われ慣れてると思ったのに・・・いや、変なこと言ってごめんね
そう言って柔らかく微笑む彼が好きだった。初めて自分を認めてもらったような気がした。
誰にも、ましてや本人にも打ち明けるつもりはなかった優菜なのに、ある冬の夜の出来事。
当時自分のパソコンを持っていなかった優菜は、遅くまで一人残って卒業論文を仕上げていた。そして8時も回る頃、コーヒーの差し入れを持って現われた篠岡と色々な事を話した。学校のこと、将来のこと。篠岡の貸してくれた資料に目を落としていた優菜はふいに誌面が暗くなったので、顔を上げると机の脇に片手を付き、自分を見下ろしてくる篠岡と目が合った。
初めてのキスだった。大学4回生、21歳の冬。
それから、秘密の交際が始まり、優菜にとって夢のような10ヶ月を過ごしたのだった。
篠岡は優菜の卒業後、臨時講師の口も世話をしてくれて、優菜は病休講師として5月から約半年間、公立の小学校に勤めることが出来、貴重な経験をさせてもらった。その事は今でも篠岡に感謝をしている。
こうして今教諭として教壇にたてるのも、その時の経験が役に立ったと思っているからだ。
しかし、去年の秋、合格したことを告げに喜び勇んで篠岡に報告した時、そっけないおめでとうの言葉と一緒に告げられたのは別れの言葉だった。
「君にしてあげられる事はもうなにもない」
たったそれだけ。別れの理由はおろか、すまないの一言さえなく。わけもわからないまま放り出された。
後で偶然知ったことだが、篠岡には優菜と付き合う以前から、結婚の約束をしていた恋人がいたのだ。郷里にいたというその女性が急にこちらに就職のため出てくることになって、篠岡は慌てて優菜を捨てたと言う訳だ。
―なんて馬鹿な私
頭を振って更に10冊ほどのノートを点検し終え、優菜はノートの山をロッカーにしまって鍵をかけた。カバンから教科書と指導書、そしてノートを取り出し、明日の授業の分を読み返す。
しかし視界に入る文字は意味を失い、またしても意識が過去の自分に囚われる。
子どもの頃から殆んど一人ぼっちだった。母の事は大好きだったが、常に心配をかけないように気を配り、勉強も頑張った。周囲の空気を読んではみださないように心がけ、だけれどもどこか冷めた自分をいつも感じていた。
母が亡くなってからは周囲の大人には特に配慮した。見捨てられてはまだ一人で生きていけない自分をよくわかっていたし、大人受けする可愛げも、感謝も忘れてはならなかった。自分の力でうまく世の中を渡って行かなければならないと考えるのは、優菜にとって強迫観念だったのかもしれない。
周りの雰囲気を鋭く読み取ることに長けた自分。常に用心深く振る舞い、絶対に目立ってはいけない。虐げられた思い出もないが、特別幸せだったこともない。
だけれども、うまく立ち回れば、意外に上手く世の中を渡っていけるのじゃないか、と感じた矢先に訪れた恋。
こんなにも容易く好きになり、信じて身を捧げ、捨てられた。彼にとっては、ほんの一時の恋。珍しいほど孤独な娘が自分に夢中になり、そうして絶望するのを見たかっただけの。それを見抜けなくて傷ついただけ。誰も責めることも出来ない。
今から思えば、のぼせ上がって何も考えられなかったのだと思う。優しい言葉も微笑みも全て自分を想ってくれているからだと自惚れていた。仮面の下の冷たさを見抜けない経験不足な子どもだった。
―一体今までの人生で何を学んできたのだろう。私は。
何度この問いを心の中で繰り返し、苦い涙を飲み込んだか。
採用が決まり、赴任校も決まって、子ども達と過ごし、忙しく働いている内にやっと思い出さなくなっていたのに、今頃になってこんな・・・・・・
「だけど、もう間違えないわ。二度とあんな失敗をするもんですか!」
バシン!と指導書を閉じ、優菜は勢いよく立ち上がった。
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優菜の苦い過去。
だけど、彼女は前を向いているようです。以前、助教授と言っていた職種は今は准教授と言うそうですね。
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