「もう私に構わないで!」
大きな瞳が怒りを湛えて自分を見ている。長い髪をイライラと細い肩で跳ね上げ唇を引き結ぶ。小さな体を精一杯大きく見せようと言うのだろう、無意識に足を踏ん張り、拳を握り締めていた。
こんな時だと言うのに志郎は、優菜を美しいと思った。
昔の話を持ち出された時、志郎は終に来たかと思った。あの小さな教会での出来事は、卑劣なことをした自分でさえ、思い出しては自責の念で苦しんだと言うのに、当の優菜が忘れているはずもなかった。
どんなにいじめても、からかっても、無視をしても、いつも小さな顎を毅然と上げ、自分たちを見ていた女の子。音を上げてしくしく泣き出せば、もう許してやろうと思っていたのに、最後まで泣きも、しょげもせず、自分たちの方こそ田舎ものと馬鹿にされているような気がしていた。
だから、止められなかった。彼女にまともに自分を見てもらうために。どうしようもなく馬鹿な子どもだった。そして最後まで、いじめを止めることも、謝ることも出来ないまま、優菜は去っていった。志郎は最後まで負けたままだった。
あれから、美しい夕焼けを見るたびに、赤い長靴と、それ以上に真っ赤に染まった小さな顔が浮かんだ。いくら打ち消そうとしても。何度も、何度も。
「さようなら!」
優菜が身を捩る。
またしても自分を置き去りに、去ってしまおうと言うのだろう。一時の感情の爆発は過ぎ、冷ややかに笑った唇から皮肉な言葉を投げつけて。
髪を翻して駆け出そうとする。考えるより早く腕が伸びる。細い二の腕を強く掴んで自分のほうに引き寄せた。気がつくと志郎は身を屈め、優菜を抱きしめていた。
もう、時を逸してはならない。
突然自分の体が大きくて暖かいものに包まれる。
抱きしめられているとわかった時には、既に身動きもできないほど、堅い腕と胸に包み込まれてしまっていた。直ぐに振りほどくべきだったはずなのに、その圧倒的な頑丈さに何故か一瞬気が緩んでしまった。もう顔さえ覚えていない、遠い昔に亡くなった父親に抱っこしてもらった記憶が脳裏によぎったからかもしれない。
どのくらい時間が経ったのだろうか?
優菜が抗わないのを感じて、志郎はほんの少し腕の力を緩めた。触れて初めて気づいた。優菜がこんなに小さくて細い存在だったことを。
小学校の6年の時に母親をなくし、優菜は一人ぼっちになったはずだった。その後、彼女がどのように生きてきたのかは知る由もないが、おそらく甘える事は殆んど許されず、人前で泣くことも、弱音を吐くこともなく、一人でがんばってきたのではないか、と言う事は志郎にも理解できた。
早くに両親をなくした子どもが生きてゆくのにどんなに辛い思いをするか、想像でしかわからない。しかし、優菜は努力して自立の道を確立し、小学校の教師となったのだ。
我儘いっぱいに育ってきた自分は、人の気持ちを思いやることのない子どもだった。さっきはえらそうなことを言ったが、この立派な女性に自分はかなうはずもない、志郎はそう思った。
「ごめんな・・・」
情けないが、こんな平凡は言葉しか思いつかない。だけど、告げたかった。どうしても。
あの子ども時代からの全ての出来事をこんな言葉で補えるとは思えなかったけれど。
「ごめん・・・」
志郎は身を屈めて呟き、はっとした。
優菜が泣いている。肩を震わせて、声を忍んで。自分の腕の中で。
自分ではどうしようもなかった。
包まれる暖かさに逆らう事ができなかった。涙を堪えることも。
低い豊かな声で囁かれて、一気に涙が吹き出る。そうしてゆっくりと大きな掌で頭を撫でられた時、もはや声すら忍ぶ事ができなかった。
「〜〜〜〜〜〜〜〜っ」
声を上げて泣くなんて子どもの頃ですら、あまり記憶にない。篠岡に捨てられた時も、自分の甘さに何度も唇を噛みしめたが、決して泣く事はしなかった。それなのに大嫌いだった、小学校時代のクラスメイトの志郎に自分に触れることを許し、あまつさえその胸で赤ん坊のように泣いている。だけどもどうしても止められない。優菜は自分が信じられなかった。
志郎は優菜の声が収まるまで頭を撫で続けた。微かに雨の香りを放つ艶やかなその髪は無骨な掌に心地がいい。
やがて優菜の肩の震えがなくなり、泣き声が低くなってゆく。志郎は優菜が自分の胸を弱々しく押すのを感じ、それに応じて少し体を離した。優菜は額を自分の胸につけてうな垂れている。おそらく泣き顔を見せたくなくて顔を上げられないのだろう。
タオルか何か貸してやるものはないかと、辺りを見渡した志郎は倉庫の中がさっきより明るくなっている事に気がついた。
「羽山・・・雨が上がってるぞ」
「え?」
思わず顔を上げた優菜をわざと見ないで、志郎はトラックの搬入口まで優菜を連れて行った。
確かにさっきまで土砂降りだった大雨はキレイに上がって、雲が速く動いている。この分ではもう直ぐ晴れそうだった。
「なんだ、ハデに降ってたけど、通り雨だったんだな。見ろよ、雲が切れ始めてるぞ」
「・・・・・・」
子どものようにシャツの袖で顔をぬぐった優菜は、駅前のビルの間の細長い空を見上げた。確かに志郎の言ったとおり、雨は止んで濡れてひんやりした風が裏通りを通り抜けていった。雨が洗ったためか、空気がよく澄んでいる。
10月初めの風にしては涼しすぎたが、涙を乾かすには充分で、濡れた睫毛越しの風景が次第にはっきりとしてくる。おそらく鼻の頭も真っ赤だろうが、志郎は隣で空を見上げたままで―――。
荒れ狂っていた心がいつの間にか凪いでいる。
―こんなにも短い間に上がったり、下がったり・・・・・・まるで子どものよう
頬の火照りを覚ましながら優菜は、無理して唇の端を上げてみた。
「帰るわ」
優菜は静かな声で呟いた。志郎はほんの少し身じろいだようだった。
「ああ。だけど送る。お前がイヤだって言っても聞かない」
「・・・・・・イヤなんて言わないわ」
「そらええこっちゃ」
おどけてポケットからキーを出した志郎は、そのまま脇に止めてある軽トラに飛び乗った。すばやく優菜のためにドアを開けてやる。
一瞬だけ目が合う。志郎の口の端が上がる。
それだけで、さっきまで屁理屈をこねて泣きじゃくっていた事は、もういいのだった。
ブルルル
小さなトラックはロータリーを抜けた。田舎とはいえ、さすがに駅の周辺は、小規模ながら開発が進んでビルやマンションが立ち並んでいる。しかし、ものの数百メートルで市街地は終わり、フロントガラスにはまだまだ残る豊かな田園風景が広がった。雲はきれて東の方向には大きく空が見えはじめていた。
「お、晴れはじめたな。空が赤くなってる」
「ホントだ。キレイ」
キレイと言った優菜の言葉に志郎はあることを思いついた。
「おい、羽山。ちょっといいか?」
「え?何」
「いいところに案内する。なに、直ぐ近所だ。警戒しなくっていいぞ」
「警戒してないよ・・・でも、何処に?」
「内緒だ。急げば充分間に合うな」
志郎は謎のような言葉を呟いた。
ぐうっとアクセルを踏み込まれ、軽トラックはスピードを上げた。雨上がりの濡れた道をどんどん進んでいく。道は本道を逸れ、絵に描いたような田舎の一本道に入っていった。
やがて小さな丘の麓で志郎はエンジンを止めた。そこは駐車場になっており、普段は目立たないながらも一応観光地になっているらしく、その丘の由来が立て看板に書いてあった。しかし、志郎はそんなものに見向きもせず、優菜を急かせて手を取り、頂上に続く階段を登って行く。
階段は結構な長さがあって、今日一日の労働と、心の浮き沈みで疲れきった優菜には昇りきるのは一苦労だったが、志郎が上手に引っ張ってくれるので息を切らしながらも何とか上がりきった。
意外と広々とした頂上には特に何もなく、遊歩道が作られており、やはりこの地の由来を示した立て看板と、周りの景色を示した地図、そして小さなベンチが数台あるだけだった。
しかし、二人ともそんなものがあることにすら気がつかなかった。
360度のパノラマに繰り広げられるすばらしい夕焼けに目を奪われていたから。
「・・・すごぉい・・・」
しばらく絶句して立ち尽くした後、優菜が呟いた。
「だろ?ここからの夕焼けは絶景なんだ。小さく見えるけど、一応標高148メートルだしな」
志郎の説明など優菜は聞いてはいない。
全天に広がる茜雲。沈みかけた大きな夕陽。そこにはありとあらゆるやさしく、暖かい色彩が散りばめられていた。下界には刈り入れ間近の広がる田んぼ、家々、鉄道、駅。点在する、同じような小さな丘。遠くには霞む山脈。
全て夕焼けに染め上げられ、夢のように美しかった。
「・・・近くにこんな場所があるとは知らなかったわ・・・・・・連れて来てくれてありがとう・・・・・・それからいろいろありがとう」
振り返って優菜は志郎に微笑んだ。既に涙の後も乾いている。
「昔からお前には夕焼けが似合ってたな」
優菜の後ろに立って志郎も笑った。
「ええ?それって私が昔から黄昏ていたって事?」
拗ねているのではなく、優菜は素直に志郎に尋ねた。
「そうじゃない。お前にはこういう色合いが似合うって言ってるんだ。それに夕焼けは明日晴れるっていうしるしなんだぞ」
「そうか・・・そうね・・・」
優菜は目を閉じた。
さっきはなんで志郎の胸であんなに大泣きしてしまったのだろうか?自分でも不思議でならないが、もっと不思議なのは、泣いた事がちっとも恥ずかしくないと言う自分の気持ちだった。
逞しい腕に支えられ、胸にすがり付いて彼の心臓の音を聞いた時、何故だかとても安心できた。泣いているうちにどんどん気持ちが軽くなり、長い間無意識に心の中に溜めてきた澱の様なものが涙と共に流れていくような感覚にとらわれていた。彼のシャツはぐしゃぐしゃになってしまったようだけれども。何も聞かない彼の優しさがありがたかった。ありがたくて、ありがたくて、たまらなかった。
「お、おい。今度はどうしたんだ?なんで又泣く?」
長い睫毛から再び涙が溢れてきたのを見て、狼狽した志郎が優菜を覗き込む。
「あは・・・冬木君のせいじゃないの・・・なんだか嬉しくなって・・・なんでだか自分でもよくわかんないんだけど・・・やっぱり、変ね。私」
優菜は目を開けて指先で涙を拭い、その指を振った。涙が小さく光りながら散って行く。それは先ほど暗い倉庫の中で流した涙とはまったく違う色に染まっていた。
もう一度優菜は空を見上げる。
そこには今日一日の終わりを告げる、壮大な夕焼けのフィナーレがあった。まるで本当に交響曲のようだと優菜は思った。
夕陽に照らされる優菜の横顔を志郎は見つめている。真っ赤に染まる頬、唇、長い睫毛を。
―何もかもあの時のままだ・・・・・・
遠い日の別れを思い出して志郎は思った。
無意識に後ろから肩を引き寄せる。優菜は逆らわない。
「優菜・・・俺をそばにいさせてくれ・・・・・・」
まったく自然に言葉が零れた。
その声が届いたのか届かなかったのか、優菜は燃え上がる空を見つめ続けていた。
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4章完結です。たくさんの応援ありがとうございます。
別に知らなくてもいい事なのですが、この物語の舞台のモデルは実は奈良なのです。まったくそのままではないんですが。京都よりも古く、あまり都市化されていない古都、奈良。私の大好きな街です。最後の夕焼けの丘は大和平野にいくつかある小さな山々のどれかだと思ってください。タイトルの浅葱色が余り反映されないお話でしたが、他にいいタイトルもめっかんなかったんで、このままです。
後一章でこの物語は完結します。応援してくださった皆さまありがとうございます。優菜と志郎・・・この二人は私の描く物語の恋人たちの中では二人とも大人で、中々動かしにくい人たちでした。さて、この恋の行方は・・・?新章はいつになるかわかりませんが、それほどはお待たせしないと思います。どうかよろしくおねがいいたします。
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