またここに戻って来たんだわ・・・
優菜は校門を出たところで振り返り、夕日に照らされた校舎を見上げた。コンクリートがばら色に染まっている。
様々な手続きは既に昨日、市の役場にて済ませ、今日は赴任の挨拶に母校へやってきた。
三月末日。春、未だ浅き夕暮れだった。
はっきり言ってこの学校にいい思い出などなかった。もっとも、良くも悪くも思い出などに思いを馳せる余裕もなく、ひたすら生きてきたこの数年だったが。
暮らしたのはわずか数年だった。しかし、ここで母が亡くなったのだ。その意味でのみ、優菜に感慨深い土地であった。
ふっ・・・とかつてのさざめきが蘇ったような気がした。
それまで住んでいた都会から移り住み、3年と少し暮らして、母が死んだ時、ちょうど6年生だった。同級生の顔も殆ど覚えていない。
ただ、子ども特有の少し違った雰囲気のものに対するいじめや、無視みたいなものはあって、おびえて泣いてあげればよかったんだろうけど、どっちみちここに住み着くわけじゃないと適当にあしらい、特に彼等が期待するような反応も見せなかったものだから、よけい苛められたような気がする。
でも、こうして教師となってここに戻ってきたからには、少なくとも自分のような子どもを作らないようにしなくては、とも思う。せっかく難関の採用試験をかいくぐって就職できた限りは。
元いた長屋はとっくの昔になくなっていたし、母を亡くしたそんなところに住むつもりもなかった。明日から不動産屋に行って借りれる部屋を探さなくてはならないだろう。幼い頃から各地を転々とし、自分の家という物を持ったことの無い優菜にとって、それは別に特別なことではなかった。
とり合えず、このまま駅にとって返し、買い物でもして今住んでいる部屋に帰り、遅い夕食でも整える以外にする事がなくなった。それでいい。明日から忙しくなるだろうから。
校門から伸びる一本道はかつては広い地道であったが、今ではアスファルトに敷き直されて、ガードレールも新しく設置されている。しかし、両側の田んぼはまだ健在で、その間を縫うように水路と畦道が走り、のどかさはまだある。そうは言っても、勿論この地にも月日の流れは明らかで、建て売りと見られる住宅が駅の方角から押し寄せてはきていた。
ゆるく頬を撫でる風は昼頃は春の匂いを運んできていたが、日が落ちる寸前の今ではぴりりとした冷気を含んでいる。
やがて優菜はゆっくりと歩き出した。
志郎は軽トラックのエンジンを止めて、小学校の校門にたたずむ細い人影を振り返った。
人影はこちらに背を向けている。長い髪の若い女性であることだけはわかったが、空気には早春の靄がうっすらと含まれ、距離もあるため、誰かまでは判別できない。しかし、どこかで見た風景だと思った。
♪♪♪
その時志郎の携帯が賑やかな音を立てる。車の音にかき消されないよう、音量は常に最大にしてある。得意先からの電話がかなり頻繁にかかってくるので、急いで携帯を開いたが、画面には頼子(よりこ)の名前が表示されていた。
頼子とは小学校、中学校といっしょで、付き合い始めたのは彼が大学を卒業して家業を継いでからだったから、ほぼ1年になる。
彼としてはせっかく都会の大学に行ったのだから、そっちで就職したい気持ちが強かったのだが、中々そんなわがままも許されない家と土地柄だった。
「俺。なに?まだ配達中だ。」
ややもすれば無愛想とも取れる口調で志郎は電話に出た。
―あ、そう?ごめん。シロちゃん、今日会える?7時ごろならいける?
甘えるような、明るい声。いつもより少しだけ早口になっている。
「なんで?お前、残業だって言ってなかったか?」
―うん、ちょっとムカつくことあって、定時で上がるつもりなんだ〜。ねぇ、ご飯食べようよ。せっかくの金曜日だし。
「腰掛OLの言いそうなことだよな。こっちは後、5軒も配達あって、最終は倉山田町まで行くんだけど。」
倉山田町とは国道沿いにある隣町のことだ。駅から遠く、老人も多いので、車による配達手段が欠かせない町である。
「多分7時過ぎるぞ。」
―いいよ。待ってる。終ったら連絡ちょうだい?
「・・・ああ・・・」
無愛想に切った携帯をベンチシートに放り出し、志郎はもう一度窓の外を振り返った。黄昏はさらに濃くなり、人影は俯き加減に一本道をゆっくりと歩き出した所だった。
・・・まさかな・・・
ばかばかしい感傷を振り払い、再びエンジンをかける。ぶるん、と小さなトラックはひと震えして、走り出した。ドアミラーに人影は赤い校舎を背に小さくなってゆく。
田端頼子は乱暴にロッカーを閉めて、廊下に出た。とたんに同僚の尾形里美(りみ)に出会ってしまった。生真面目な彼女は今、頼子が最も出会いたくない相手だった。
「あれ?田端さん、帰るの?」
「帰るよ?帰っちゃ悪い?」
頼子は里美の目を見ないようにしてつっけんどんに答える。ここで大抵の人間はテキトウに答えてやり過ごすのだが、頼子のワガママで残業のあおりを食らってしまった里美は皮肉の一つも言いたい気分になっていた。
「まあね、田端さんに任せていちゃ、いつまでたっても見積書はできそうにないしね。でもさ、自分が二箇所も計算まちがいしたんだから、いくら縁故就職でもあの態度はまずいよ。」
あの態度とは、ミスを指摘した3年先輩の同僚に口答えした挙句、今日は頭痛がするので帰りますと、相手の答えも待たずにオフィスを飛び出した事を指している。
その見積書は至急扱いで、明日の朝イチで先方に届けなくてはならず、同輩の里美におハチが回ってきてしまったのだ。里美の皮肉はここにある。他市からきた里美からすれば、地元民で短大卒業後、就職活動もせず、叔父の会社に就職している頼子はあんまり好きになれない年下の同期だった。
「いいの!とにかく今日は頭がいたいの。じゃ!」
ついさっきオフィスを飛び出したのとまったく同じ態度で、頼子は踵を返し、ちょうど止まったエレベーターに飛び乗った。
あ〜、うっとおしい。なんで誰も彼もこんなにうっとおしいのかしら?
さっきの志郎の電話の態度もムカつくし、計算間違いを指摘した先輩も、わざわざ嫌味をいいに来た里美も超ムカつく。5人乗りの小さなエレベーターにたまたま乗り合わせた、違う会社の中年社員にすら腹が立つ。なにより、こんなにいらいらしている自分が一番ムカついた。
なにさ、シロちゃんだって最近すっごいテキトウな態度だし。いくらお店を拡張するんで忙しいったって、彼女をないがしろにしていいわけ?はじめの頃はあんなに優しかったのに・・・!
エレベーターが開くと頼子は後も見ずに、街路へと飛び出した。
地方都市とはいえ、一応県庁所在地であるこの街のメインストリートだ。金曜日の夕方のことで人通りは多い。ここから私鉄で頼子の町まで20分、6時前には家に帰れる。久しぶりにオシャレをして着飾って志郎を待とう。何ならもう一度こっちへ取って返して、最近できた洒落た居酒屋に繰り出すのもいい。そう決めると少し気分も晴れやかになるように思えた。
もうすぐ爛漫の春だ。
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プロローグから11年後の設定です。
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