ぱすん、と志郎の腕に赤いトートバッグが当たり、長い髪の女性が急ぎ足に歩きながら謝った。
「すみません」
その時なぜ、そのことに気が付いたのか志郎は説明できない。
しかし、街灯に照らされ、揺れる髪を見たとき、志郎は何故だか確信に近い思いに突き動かされ、「待て」と声をかけたのだった。
通り過ぎようとしていたその女性が驚いて肩を竦ませ、髪を弾ませながら振り返るのを、まるでスローモーションでも見るように志郎は見つめていた。
「やっぱりそうだ。・・・お前、羽山優菜だろ?」
「・・・はい?」
優菜は訳が分からず、とり合えず返事だけした。
この町に知り合いがいないといえば嘘になるが、9歳から12歳までの3年余り過ごしだだけで、親しくしていた大人も子どももいない町だ。誰も優菜のことは覚えていないだろうし、実際優菜も誰のことも思い出せなかった。勿論、彼女を呼び止めた大きな男性も。
なのに、何故?
「俺、冬木志郎。・・・覚えてないんだな、その様子じゃ。」
志郎は面白くもなさそうに優菜を見つめた。志郎が覚えている、少し波打つ長い髪。細い肢体に、おとなしい色合いのツインニットと黒いパンツ、記憶に残っている少し神秘的な雰囲気。優菜は変わっていなかった。
優菜も自分の目の前に立ちはだかっている男性を不思議そうに見ていた。コットンタートルのシャツに厚めのジャケットを無造作にひっかけ、ジーンズのベルトのバックルが自分の腰よりかなり高い位置で鈍く光っている。やや彫りの深い、意志の強そうな瞳、今はやや顰められている、形のいい眉を。この顔を幼くしてみると・・・・・・
「・・・・・・・・・ぁ・・・・・・・・?」
「思い出した?」
思い出した。それも、ひどく苦い色合いを濃く含んで。自分がこの町にいい思い出がなかったのは大部分、トウキシロウ(漢字は思い出せない)という嫌な男子生徒のおかげではなかったか?
思わずその思いが顔に出たのだろう。トウキシロウと名乗る、同級生らしい男の眉がより一層険しくなる。
「ちょっと、シロちゃん、誰?」
頼子が少し声を高めて聞いた。
「・・・ああ、お前覚えてない?小学校の5・6年一緒のクラスだったろ?えっと・・・修学旅行の前に転校したんだったよな?羽山・・・優菜サン」
「ええ〜〜〜?そうだっけ?ゴメン、私覚えてない。」
意外な志郎の答えに、本当に驚いたように頼子は首をかしげて優菜を見つめた。
「・・・」
優菜はどうしていいのかわからず、今の今まで忘れていたかつてのクラスメイトたちに軽く会釈をした。
「・・・調子いいよな、俺等、寄ってたかってイジメてたんだぜ。羽山さんのこと、俺は覚えている」
「ええ〜、イジメぇ・・・私そんなことしたかなぁ・・・」
本当に思い出せないらしい頼子に、少し苛立ったように自分を見ている志郎。どちらにしても、優菜にとって、もう今更何の関係もないし、どうでもいい存在の二人だった。
「・・・じゃ。」
短く言って、コンビニへ向かう。目下の自分の関心ごとはこのことだと言わんばかりに。
「待てって」
「!」
がっしり腕を掴まれている。
さっきふいに名前を呼ばれた時よりも、もっと驚いて優菜は愕然と志郎を見上げた。
なに?なんで・・・?この力強さはなに?
「羽山・・・さん、なんでここにいんの?」
「・・・」
「仕事で?」
「・・・そ、そう」
がくがくと首を振る、狼狽のあまりに。
「へえ、どこに勤めてんの?それとも出張?羽山、さん・・・よかったら教えてくれよ」
にこりともせずに志郎が尋ねる。すごく言いにくそうにサン付けで呼ぶのもなんとなく気にさわる。勤め先など言いたくない、言いたくはないが、なんとなくやり過ごせる雰囲気ではなかった。
「・・・く、葛ノ葉小学校・・・」
いかにもしぶしぶと言った様子で小さく優菜が答えた。
「え!?それって俺等の出身校じゃん。・・・ひょっとしてセンセイ?」
「・・・離して・・・腕」
「え?あ、ああ、ゴメン」
慌てて志郎は優菜の腕を離す。その開放感が優菜に自分を取り戻させた。
「悪いけど私、急いでいるの。じゃあ!」
今度こそ有無を言わさず、優菜は駅の方向に走り去った。
「なに?アレ。感じ悪い人ねえ。シロちゃん、私、今の態度で少し思い出したかも。そういえば小学校の時、少しだけいて、嫌われてた人、あの人だったような気がする。暗くて、アイソなくてみんな嫌ってた」
「・・・暗くてアイソなきゃ嫌うのかよ?」
「そういうわけじゃないけど・・・あんまり良く覚えてないし・・・きっと変わった人だったんだよ。今もそんな感じだったし・・・シロちゃんだって率先してイジメてなかったっけ?」
「・・・」
頼子のその問いに悪意はない。しかし、それだけに志郎は自分のしたことを頼子にさえ覚えられていたのかと、言葉に詰まった。
「でしょ。まぁいいじゃん。昔のことなんだし・・・あれ?なんか小学校のセンセイとかって言ってなかった?災難だね、子ども等も。あんな暗い先生でさ」
「・・・違う・・・俺は・・・」
「え?何?・・・って!早く行かなきゃ、予約の時間ギリギリだよ〜!私等も行こう!」
コンビニに駆け込むと、優菜は用もないのに一番奥の棚の後ろに行き、下の棚の商品を物色する振りをして屈みこんだ。
なんで、私がこんな・・・別に悪いこともしてないのに・・・早くお弁当を買って帰りたいのに・・・
訳もなく腹が立ち、心臓がドキドキと脈打つ。さっきは狼狽のあまり思考が言葉の形を取らなかったが、今はゆっくり沸いてくる嫌な感情を確認する事ができた。したくはなかったが。
トウキシロウ・・・トウキシロウ・・・確か家がお金持ちで・・・いっつも自信たっぷりで、私のことを馬鹿にしていたっけ?クラスのリーダーで、なんでもできて、人気があって、でも、根性の汚いヤツだった。確かクリスマス会でわざと私のケーキを落としたり・・・
忘れ去っていたとばかり思っていた苦い思い出が、自分でも不思議なくらいに鮮やかに蘇る。
目の前をゆっくり滑り落ち、ひしゃげてしまったケーキ。それを捨てた自分。みんなのひそひそ笑い。泣くのを堪えて走って帰った家路。
ここが屋外ならつばを吐きたいくらいの苦い味が口腔に広がるのを噛みしめながら、優菜はゆっくり立ち上がった。
どうだっていい。昔のこと。馬鹿げてる、何を動揺しているの?私は私だわ。どうせ、もう会うこともない―――
―――でも、本当にそうだろうか?この小さな(面積ではなく)田舎町だ。まだ来て二週間もたっていないのに、もう同級生に出会ってしまった。この調子では何時又、偶然にばったり会うかも知れたものじゃない。しかも、ついうっかり、勤務先まで教えてしまった・・・。
この間、教頭に古い気質が残る土地柄だと注意されたばかりではないか。まさか、かつてのクラスメイトの全員がこの町に残っているわけではないだろうし、まさか、まだこの歳では自分が担当する小学生児童の保護者になってもいないだろうから、保護者としてまみえる訳でもない。そんなに気にすることではないかもしれないが、道端や、商店でばったり・・・なんて可能性は大いにある。現にちょっと金曜日の混みあう駅前とはいえ、この始末だ。
しかも、自分は誰一人として顔を覚えていない自信はある。なのに向こうはあのトウキシロウのように物珍しさから、自分を覚えているかもしれないのだ。
「冗談じゃないわ」
気をつけよう・・・。幸い校区に部屋を借りてはいないし、行き帰りは自転車で帽子を被れば誰だかすぐにはわからないわ。
優菜は弁当の棚のところに行って不必要に時間をかけ、ゆっくり選んだ。ついでに「新製品!」と書かれたデザートも籠に入れ、レジを済ませた。
恐る恐るドアを押し開けると、そこにはもう彼等の影もなく、相変わらず帰宅を急ぐ人たちが行き交っている。
もう、夕焼けの最後の残り陽も消え、春の夜がゆっくりと始まろうとしていた。
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お待たせいたしました。地味な始まりでしたが、以外に好評です。さて、再会を果たした優菜と志郎。まだまだ隔たりは埋まらないまま。
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