優菜が時計を見ると、既に6時を大きく過ぎ、春の宵が窓の外に広がっていた。明るい職員室から見れば、まだ微かに山の端に残る夕焼けもひどく頼りないものに見える。





新学期が始まって1週間。今年度新規採用の優菜は、5年生3クラスのうちの2組の担当となった。

大学を卒業して一年間、非常勤講師として二つの小学校をまわった優菜だったが、年度始めからの受け持ちは初めてで、しかも、5年生という、そろそろ子どもの時期の終わりに近づいた子ども達の担任は、まったく初めてだったので、いろいろと神経を使う事が多く、くたくたになった七日間だった。

始業式の日はさすがにクラス替えしたてで、又、新しい担任にも興味があったしで、少しはおとなしくしていた子ども達も、次の日にはさっそく、本領を発揮してやりたい放題をしてくれた。

この一週間で、ずいぶん喉を痛め、声が枯れてしまったような気がする。昔も今もさほど悪い学区ではないが、男の子たちの活発さは想像以上で、タン瘤、打ち身、擦過傷は数え切れず。一人の男子児童などは階段の手すりを駆け下りると言う離れ業に挑戦し、転がり落ちた弾みに目の上を切り、本人が驚くほどの血が出たので、保健室の養護教諭が公用車で、近くの病院に搬送する騒ぎになった。

結果は大したことはなく、ボクサーのように目の上に強力なバンテージが貼られて帰ってきて、本人はケロリとしており、かえってハクがついたように威張っていた。優菜にしてみれば、戦々恐々で教頭と共に保護者宅まで送っていったのだが、昔は農家をしていたと言うその家の祖父が出てきて「バカヤロウ」とゲンコツを孫にお見舞いし、せっかく立ち直っていたその男子が大泣きをする始末で、大いに狼狽させられた。

結局、彼の母親も祖母もそして、曾祖母まで出てきて迷惑をお掛けしましたと謝られ、とり合えず事なきを得た。

帰りの道中、優菜は教頭にいい校区ですね、と言うと、まだ若い40代の教頭は確かにそうだが、昔かたぎの人が多く、いい時はいいが、一旦こじれると中々信頼を得られないと難しい顔をしていった。

又、新興住宅地に住む比較的若い夫婦達の子女と、以前からの住民の間に考え方の食い違いがあったり、あるいは、意思の疎通がまったくないというありがちな問題はあるとの事で、本校の児童も多かれ少なかれそういった親たちの影響を受けるため、学習や遊びのグループも、それぞれなんとなく雰囲気が違うらしい。

そして、何か問題が起こり、対処の仕方によっては、親たちの攻撃の矛先がこちらにまわってくる事もあるから気をつけなさいといわれた。

言われなくとも優菜には充分心当たりがある。転校してきて、目立たないうちはよかったが、少し皆と違うことをしたり、言ったりしたらとたんに仲間外れにされた。自分は別に悪めだちするほうではなかったが、それでもすかしているだの、暗いだの散々陰口を叩かれたものだ。そんな気質が今でも続いているのだ。と、少し、げっそりした気分になった。





そんなこんなで決して無事とはいえない最初の一週間だったが、ベテランの先生いわく、「終いにはなんとかなって」ようやく金曜の放課後を迎える事ができた。

若い教諭の間では飲みに行こうかという声も上がっている。優菜も誘われたが、本当に疲れ切っているから次にお願いしますと言うと、それ以上は誘われなくて済んでほっとした。

優菜は酒は量は飲めないが、どちらかと言えば好きなほうなのだが、まださほど親しくない複数の人間とワイワイ飲むのは苦手だった。今は昔と違って、付き合いも自分なりに学習し、テキトウな相槌もお愛想笑いも上手になったと思う。しかし、基本的に自分は社交辞令とか義理と言うものが苦手なのかもしれない。

教師は基本的に明るくなければ子ども達をひきつけられない仕事だから、子ども達の前では自然に明るく振舞える。好きな仕事だし。だけど、今日のように疲れきっていては、この上お愛想笑いはうまくできそうになかった。





荷物をまとめて大振りのショルダーに放り込み、挨拶をして暮れなずむ戸外に出た。まだどうにか日の光が残っている。すぐに消えてしまうだろうけど。

すうっと風が通ってゆく。春の歩みが今年はやや遅れている。桜は七分咲きというところだ。

「さむ・・・」

今日は駅前のスーパーで簡単にお惣菜でも買って帰ろう。湯豆腐もいいかな?ゆっくりお風呂に浸かって寝て、持ち帰りの仕事は明日すればいい。

優菜は校舎の裏から自転車を引っ張り出し、校門を出た。










「ちょっと、何で勝手に決めるの!?」

「疲れてるから。もう、あんなとこまで行きたくない」

駅に程近い商店街。一番立地の良い場所を占めるのは大きな多目的酒店、「リカーショップ・トオキ」だ。酒、飲料、調味料の類のほかに乾物、菓子など、生鮮食料品以外は大抵置いてある。特に新しく始めた輸入物のチーズやソースは都会のデパートまで行かずとも割安で購入できるとあって、好評だった。

家業の造り酒屋はいまだ健在で、父親の代の人々が頑張ってはいる。しかし、ここ十数年の日本酒の需要は落ち込む一方で、江戸時代から代々続いた銘柄ではあったが、これ以上の事業はまず無理と見限った志郎の兄が八年前から小売業をはじめた。

これがうまく当たって、今では支店を近隣の町に2つ持つまでになり、二年前には有限会社として発足した。そんな訳で、次男坊として都会の大学で、気楽に全然毛色の違う分野を専攻していた志郎を無理に呼び返し、実地に営業や経営を学ばせながら、店の拡大を計ろうと冬木家では考えたのである。

「だって、せっかく予約取ったのに。中々取れないんだよ?あの店」

店の裏口にあたる搬入スペースに頼子の不満の声が響いた。

「そお?」

志郎は頼子に視線を合わさずにすたすた歩き出す。兄には休みを貰ったのだが、本当に疲れていて、頼子の言うオシャレなオーガニックレストランなどに行きたくなかった。どうせ、草食動物が食べるような見たこともない野菜がひとつまみと、ひとかけの肉が不自然に大きな皿に乗っかって出てくるだけに決まっている。第一これから電車に乗るなんて真っ平だ。と言って車で行けば、酒も飲めない。そんなこと頼子にはわからないんだろうか?



―――つまらん。



志郎は思った。土曜のランチならいざ知らず、疲れきった金曜の夜になんでそんなもん食わないといけないのか。第一まだまだ夜は冷えるのだ、こんな日は焼酎の湯割りに決まっている。肴は脂っこくて辛い、健康に悪そうなものがいい。この街の駅通りだって結構人通りはあるし、古いがいい店だってある。



「そんなに行きたいんだったら自分で行けよ。友達いっぱいいるだろう?」

「・・・私はシロちゃんと行きたくて予約取ったの!」

頼子は中々譲らない。よほど楽しみにしていたのだろう。志郎はうんざりしてきた。

やや明るめの茶髪の前髪をサイドから横にひっぱり、セミロングのシャギーを今風にまとめた頼子は連れて歩いて見栄えのする女だった。まだ肌寒い4月はじめの宵だと言うのにヒップハングのダメージジーンズにきらきらしたベルトを二重に巻きつけている。トップスはコットンフリルの付いたミニTシャツに、ボアの付いた短いサテンのダウンジャケットを引っ掛けている。

自分は冷たいんだろうか?およそ暖かそうとはいえない、都会風の装いに身を包んだ頼子をちらりと見て志郎は思った。






『冬木くん、私と付き合おうよ』

一年前、大学を卒業して家業を継ごうと決め地元に帰ってきた時、中学校の同窓会で再会した頼子にそう言われて、志郎は軽く「いいよ」、と言ったのだった。

ちょうど付き合っていた彼女とも別れたところだったし、流行の服をセンスよく着こなした頼子はとても見栄えがした。明るくて、よく笑い、彼女にするには申し分ない異性だった。事実付き合い始めた当初は楽しかったし、地元に残っている友人達からは羨ましがられたものだ。

だが・・・最近少し志郎は引いてしまうようになった。

このまま行けば確実に自分は頼子に掬い上げられてしまう。頼子の家も地元で、分家だが、親戚は会社を持っており、両方の親もこの付き合いを好ましく思っている。頼子の親にはさすがにあったことはないが、しょっちゅう遊びに来いと誘われているし、このまま行けば、頼子の敷いたレールに組み込まれ、結婚させられるのは見え見えだった。

頼子とはそんな風になりたくはない。付き合って楽しければいいと思うのは本気で愛していないからだ。学生時代に付き合ったどの女性ともこんな風だった。自分は冷たい人間なんだろうか?そんな風に考えるとますます気が滅入った。

「・・・わかったよ・・・」



まわり中、春の宵に浮かれた人々が通り過ぎる中、志郎は一人心の底を寒くしていた。










駅前のスーパーは結構混んでいて、惣菜類も殆んど売り切れており、優菜は仕方なく、コンビニで弁当を買うことにした。これはあんまり使いたくない手段だったが、自分で作る気力が無かったのだからしようがない。

ついでにちょっと高めのデザートでも買おう。そう決めて、優菜は手ぶらでスーパーを出た。自転車は面倒くさいのでスーパーの駐輪場に置いたままにする。

コンビニはスーパーよりもさらに駅近にある。ほぼ改札のまん前だ。この街のコンビニはここだけだったから、いつも結構賑わっている。急がないと弁当がなくなるかもしれない。優菜は早足で歩き出した。



「あ、すみません」

自分の抱えた大きなショルダーが、前を行くカップルの男性の腕にあたってしまい、優菜は無意識に謝った。

「あ・・・おい!ちょっと待って。」

急に呼び止められて驚いた優菜はその顔のまま振り向く。

そこには背の高いがっしりした男性が、細い女性に腕を取られて立っていた。





「やっぱりそうだ。・・・お前、羽山優菜だろ?」







                ○●○●○●○●○●○●







この話を書き上げた当日(2006.5.1)驚く発表が。会社法の改正で有限会社と言う制度はなくなったそう。特殊有限会社とかになるそうで、中身は調べてないので???えーい、いいやい。と言うことで有限会社のままUPしました。
詳しい方がいたら教えてください。








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